『インディゴ地平線』

(※これは(勝手に)ART-SCHOOLSPITZGRAPEVINEの楽曲を全曲解説していく途上で遺跡となってしまっていたBlog「Self Service」の移植記事です。移植日:18/6/23 オリジナルのポスト日は投稿日時参照)

 

大ヒット作となった前作『ハチミツ』の後に続くのは、多くの批評家や昔からのファンから「原点回帰」的と称された、本作だ。

全体的に見れば、中期に入ったスピッツが「現実」を直視はせずとも、どうにか目だけはそらさないでおこうとして見た、何気ないページに記された倦怠や憂鬱といった感じだろうか。既に『惑星のかけら』の宇宙にまで飛んでいくようなスペーシーなまで爆裂に飛ぶこともなく、かと言って『空の飛び方』や『ハチミツ』のようなガーリッシュな男の子(乙男)のメルヘンワールドでもなくなり、「飛ぶこと」に固執しすぎなくなった彼らが、どうしたか。現実世界にある自然や人工的な景色の果てにもう一度、冷静に目を向けたのである。

 

こういう訳で「原点回帰」かと言うと、そうでもない。
なぜなら、ここには1st『スピッツ』で見られた不気味な擬音もないし、超初期に見られた過剰なまでの「僕」の主観もない。あるのは、タイトルトラックのように、「地平線の果てのここで、どこにも行けず途方もなく立ち尽くす僕たち」である。もう一度、言うが、立ち尽くす「僕」ではなく「僕たち」であるところが超初期との決定的な違いだ。だから、ここには「夕陽が笑う、君が笑う」から"君"もいるし「街道沿いのロイホ」には「ナナ」ちゃんもいる。
でも彼らはその景色に染まり、多角的な広がりを見せない。そんな景色をただ僕は眺めている、といった感じ。ここには過剰な"僕"もないし、鳥獣戯画歓喜もないし、メルヘン男子の空想も大きく薄れてはいるけれど、まだ捨て切れない希望の目とそれに映る"君"がいる。前作『ハチミツ』が森ガール的だとすれば、こちらはだいぶん都会に出て来た感じがする。それでも"僕"の頭の中にはメルヘンではないにしろ、どこか「ここ」とは違う快楽があって、それを抱え込んだまま途方もなく歩いている感覚がする。


この感覚は次作の『フェイクファー』でプロデューサーからも離れ、さらに深化する(と言う訳で「原点回帰」という言葉をスピッツに敢えて使うならば次作か次々作の方が良いのでは、と思う。実際にそれが超初期の盤と肩を並べるかという完成度だと評価するファンもいる…私です苦笑)。それについては当該頁を見ていただきたいが、次作も<<偽りの海で>>どこに向かうのかは分からないけれど<<箱の外へ>>としているのに対して、このアルバムは、まだ嘘だとか本当だとかは決めかねている感じもする。とにかく、今自分の目の前で起こっている景色を引き受け「たい」といった漠然な思いでとどまっている。だからこそ、青の果てのような秀逸なタイトルトラックも生まれ得たのだ。

地味ながらも、『ハチミツ』と『フェイクファー』という大傑作を結ぶのに欠かせなかったアルバム。
個人的には、小2の頃にこのアルバムを初めて聴いたことで主体的にスピッツやロック・ミュージックの世界に入ったので、自分の主観的基準が(最早スピッツを超えて、「音楽」も超えて、色々な物事を捉える上での)本作にあるので、どうしても客観的に見辛いなのだが、どうにか捉えるならそんなところだろうか。

96年9月リリース。なおタイトルは後にindigo la endのバンド名の元ネタになっている。

インディゴ地平線

インディゴ地平線

 

 

1.花泥棒
久し振りのテツヤ氏作曲。ドライヴ感のキいた、だけどハデすぎないエッジをもつこの曲をアルバムの幕開けにもってきていること自体が「『ハチミツ』のメルヘン男子とは違うんだぞ!」と主張しているような感じもあり、どこか微笑ましい。
<<花泥棒/花泥棒>>とコーラスも全員で連呼しているあたりが、インディー期に戻ったかのような感じだ。全体を見ると2分に満たない曲でアルバムのプレリュードを彩っているのは次作の「エトランゼ」でも使われた手法だ。
うねりまくるベースラインとボーカルをなぞるように描くリードギターの上にのる歌詞は、妄想を持ちつつも、現実の「あの子」に向けて花をくすねるナードっぽい男の子の乱暴さといった感じか。もらった「あの子」も、自分にプレゼントされた花が、まさか奪われたものだとは思いもしないだろうなぁ…と言ったような変なムフフ感もあり良い感じに気持ち悪い。
とりあえず<<夢で会う時はすごく良いのにさ>>なんだから、「現実でも一泡ふかせてやるぜ!」な茶目っ気もあるまま<<逆に奪われて/全て奪われて>>のあたりが相変わらずの情けないスピッツっぷりを発揮している。


2.初恋クレイジー
前曲から間髪を入れず、ピアノの軽快なイントロが始まる。
タイトルがとても秀逸で、まさに「初恋」で「クレイジー」になっちゃった子の歌。これの主人公がタイトルも近い「恋する凡人」だとしたら、こちらは幾分、初恋のせいでクレイジーになりすぎてしまっている。それがまた微笑ましい。
<<見慣れたはずの町並みもド派手に映す愚か者/君のせいで大きくなった未来>>も勝手に恋心を抱いちゃった中学生のように純粋な歌いだしだ。サビのはじめも現実を見据えた中期スピッツならでは、だが<<表の意味を超えてやる/それだけで>>は、君との逃避行だけでオルタナティヴな地平までひとっ飛び! な余りある意志が見れる。
間奏の<<例えば僕が戻れないほどに壊れていても>>は、「恋する凡人」の時点では解消されているが、初恋であるがゆえに、とめどないところまでいっちゃって、「壊れる」なんて「言っちゃってる」感がある。もちろん続く言葉が、<<壊れていても『構わない』>>と見え見えなところもまた純粋な少年少女のようで可愛らしい。


3.インディゴ地平線
PVも作られたタイトルトラック。仮タイトルは「キリン」。
重い雲がかすめたような、のしかかるイントロも束の間、マサムネ氏が<<君と地平線まで/遠い記憶の場所へ>>と相変わらず逃避行の歌であることを示す。しかし「スパイダー」のような無茶感はなく、それは現実に倦怠して、そこから抜け出そう(「逃げ出そう」とは少し違う)と誘っているかのようだ。
それを明かすかのように2番のはじめは<<歪みを消された病んだ地獄の街を/切れそうなロープで/やっと逃げ出す夜明け>>と憂鬱な日常の解き穴を、過度に歪み病んだ言葉で彩る。
しかし、それも<<凍りつきそうでも/泡にされようとも/君に見せたいのさ/あのブルー>>のように、どうしても見せたい青の果てがあるからだ。その地平に立ってみてやっと<<僕らは希望のクズだから>>。決して、鬱屈した曲で終わらせるのではなく、どうにか、燃え尽きそうでも光は保っている。

4.渚
14thシングル。
相変わらずタイトルが良い(これについてマサムネ氏は大学の教授から聞いた「渚とは海でも陸でも空中でもないエリア、だけど海も陸も空中も関係し合っているエリア」との言葉に喚起されたと語っている)。「渚」というタイトルが示す通り、寄せては返す波の様をループするシンセとベースが体現しているようで青いが、これは前曲の青とは違い、暗がりの青よりも清々しさもある。途中からブツ切れっぽく入ってループしているようなドラムもそれを増幅させている。
<<思い込みの恋に落ちた>>とあるように片思いソングであるが、<<ねじ曲げた思い出も/捨てられず生きてきた/ギリギリ妄想だけで君と>>と自分から打ち明かしているほど、妄想の記憶混じりだけど現実を見ようとしている様は、この時期のスピッツを体現しているような曲だ。
<<二人の夢を合わせる>><<渚>>を夢見つつ、<<輝いて…>>と連呼する間奏も次作の「運命の人」ほどではないまでも同じ手法を取っていた「日なたの窓にあこがれて」からすれば幾分クリーンである。この曲を基軸に「運命の人」の確固たる思いと「日なたの窓~」の抑え切れない煩悶する様を対比してみるのも面白いかも知れない。
PVはサーカス風でメルヘンだが、暗がりが射していてどこか幻想的と言うにはねじれすぎていて、絶妙だ。


5.ハヤテ
これも全編をみてミドルテンポの片思いソングだが、『フェイクファー』に続く前のワンクッションとして見れば、たしかにこういう曲が生まれるのも納得できる。
<<言葉はやがて恋の邪魔をして/それぞれカギを100個もつけた>><<でも会いたい気持ちだけが/膨らんで割れそうさ/間違ってもいいよ>>と、どこか純粋だけど背徳っぽい香りもあるし、でも歪みすぎる訳でもなく<<ただ微笑むキューピッドのことばっかり考えて/飛び込めたらなぁ>>くらいで止まっているあたりは、『インディゴ地平線』の基本姿勢を示しているようだ。
<<気まぐれ/君はキュートなハヤテ>>は、「ハチミツ」の「いじっぱりシャイな女の子」を思わせつつも次曲のさらに奔放な「ナナ」にうまく繋がっていく。


6.ナナへの気持ち
マサムネ氏いわく「コギャル賛歌」の曲。イントロ前の歌詞に表記されていない「笑いすぎ? フフフ……」との無邪気なボイスがのっけからこの曲のアティテュードを示しているようだ。
<<誰からも好かれて片方じゃ避けられて/前ぶれなく叫んで/ヘンなとこでもらい泣き/たまに少しクールで/元気ないときゃ眠いだけ>>、<<ガラス玉のピアス/キラキラ光らせて/お茶を濁す言葉で/周りを困らせて/日にやけた強い腕/根元だけ黒い髪>>と奔放な「ナナ」の素性を示しつつ、<<大事なこと忘れていった>>と括っているのは面白い。
これは「ナナ」が大事なこと忘れていったのではなく、ナナと接しているうちに"僕"が曖昧になっていっているのだろう。
ミドルテンポなメロ部分から一転して、アッパーなサビが自然に盛り上がっていて良い。が、サビで歌われているのは、ほとんど意味がない。なぜって、とにかくナナとどこか踏み切れない僕をずっと<<ナナ>>という叫びにのせているだけだからだ。もちろん、「僕の天使マリ」を思い出すが、あちらのマリちゃんとは主従関係が完全に逆だ(マリちゃんは若干メンヘラ気質のマゾヒスティックな女の子を想起させるリスナーが多いがーーまぁMはマスターのMでSはスレイヴのSとも言いはするのがこれらの曲にも通用しそうなのが興味深いがーー、ナナちゃんは明らかに自信のある勝ち気な女の子だ)。
だから<<街道沿いのロイホ(ファミレス"ロイヤル・ホスト"のこと…自分の生活圏にはなかったので、想像しにくかった苦笑)で/夜明けまで話し込>>んだにも関わらず<<何も出来ずホームで見送られる時>>という言葉が飛び出すのも必然だろう。しかし、その後に<<君と生きて行くことをきめた>>となっているので、一見、「ハマりすぎ」なんて思っちゃうも、何も「二人だけで生きて行く」とまでは決めてないから安心だ。
ちなみに間奏のペチャペチャ話は、後に田村氏の奥さんとなる福岡のラジオDJとマサムネの談話模様をピッチを上げて早送りしているとのこと。話の内容は「日常とセックスについて」だそう。


7.虹を越えて
この曲からがアルバム後半になるような感じがする、ミドルテンポの意図的に単調にしたような曲。
<<モノクロ/すすけた工場で/こっそり強く抱き合って/最後の雨が止む頃に/本気で君を連れ出した>>は始まりから『空の飛び方』期のような秘密の場所を思わせるが、それが曼荼羅の世界に勝手に自室から飛び込んでいっているのに比べ、こちらは一応「モノクロすすけた工場」と無理のある設定だが一応現実、しかも人工的な場所にいる。
<<漫画のあいつと遊ぶ日も/蚕の繭で寝る夜も/遠い子どものように/みんなあらすじ書き変えた>>は、相変わらず中期の彼らのスタンスを何度も打ち出しているようだ。


8.バニーガール
小指アクセントのAコードを巧みに使いながら疾走感のあるイントロから始まるアップテンポな曲。
ちなみにタイトルの「バニーガール」は、マサムネ氏によると「裸よりもバニーガールな方がエッチな香りがする。だって裸は日常でも1人でなる時があるけど、バニーガールは男の目線があるからこそだから」とのこと。まさに、と言った感じだろうか。苦笑
さらにROCKIN' ON誌のインタビューによると、「チェリーだけではポップすぎる。ポップなものは良いけど、その中の変態性を大事に守るためにこの曲も入れたっていうか」と語っている。
相変わらず全編を通して片思いソングだが、この曲はこのアルバムでは珍しくかなり"俺"の主観が強い。<<寒そうなバニーガール/風がふいた/意地悪されて/震えていた>>から始まるバニーな"君"はどこかいじめられて弱気になっているところを"俺"に見つけられるも、すぐにはその心を見せようとしない女の子といった感じだろうか。だから、"俺"は救おうと思っても空回りに終わってしまう。
サビの<<君と落ちてく/ゴミ袋で受け止めて>>は、Nirvana「Very Ape」のラストの詞を引用とまでは言い過ぎだが、想起させる。
この曲の最も秀逸な一節は、<<「良いなぁ、良いなぁ」と人を羨んで/青いカプセルを噛み砕いた>>だろう。実は、バニーの"君"だけが病んでるだけではなく、"俺"も等しく病んでいるのだ。それでも"俺"の覚悟は決まっている。
<<Only You(次作の「運命の人」が「アイニージュー」とカタカナ表記だが、こちらは英語になっている)世界中が口を歪める/君に消される>>、それでも構わないと思っているところが不器用で良い。


9.ほうき星
ここで田村氏作曲の初登場。
前曲のアップテンポから一転、ローテンポで実像がないような曲だが、後の「俺の赤い星」などもそうだ。
歌詞カードを見返してもサビの歌詞だけで全編の7割強を占めているのでは、と感じるくらい何度もサビが続くが、そのサビは<<弾丸/桃缶>>とか<<哀愁/街中>>とか絶妙に韻を踏んでいる。2番を歌いだす時に右イヤフォンからギターのシールドをアンプに近付けたときのようなノイズがブツ切れで聞こえ、それが歌詞も相まってどこか異次元に飛ばされるようだ。
本人の曲だけあって、間奏も含めベースが表情豊かなのも面白い。


10.マフラーマン
前曲の流れを崩すことなくダルな感じをさらに重くすることに一躍買っている。言葉遊びも前曲の雰囲気を繋いでいるようだ。
「マフラーマン」という謎の存在に憧憬を抱きつつ、奇妙な目線から"君"に訴えかけていて超初期の気味の悪さが出ている感じもする。間奏は「シュラフ」から久し振りにフルートが彩っている。


11.夕陽が笑う、君も笑う
前2曲のシュールな世界からさらに一転、現実に戻りつつアッパーな曲。
<<ここにいる/抱き合いたい/ここにいる>><<求める/胸が痛い/求める>>のように、サンドイッチ式で組まれた歌詞もキレがよくサウンドのアグレッシヴさと相乗効果でサビにいたるまでの高揚感を高めている。
<<怖がる/愛されたい/怖がる/ヘアピンカーブじゃ/いつも傷ついてばかり>>も誰もが身に覚えある、受け止めてほしい願望をキュートになぞっていて爽快だ。


12.チェリー
13thシングル。
仮タイトルは「びわ」だったようだが、どう考えても「チェリー」で正解だろう。
マサムネ氏はインタビューにおいて臆することなく「チェリーって、いや、だって、普通にそれは(チェリー)ボーイって意味でしょ」と付笑している。と
空も飛べるはず」、「ロビンソン」に並ぶスピッツの自他共に認める顔的な曲でそれはストレートにポップなギターとニューウェーブっぽいシンセの入り交じるイントロを聴いただけで瞭然だろう。
ライヴの最終曲に配されることも多いこの曲は、後の「ビギナー」とはまた違った形の始まりソングで、汚れた童心(童貞マインドとも言い換えられるか)のまま、また世界に対峙していこう、と戸惑いながらも進んでいくような微笑ましい曲だ。
<<「愛してる」>>をサビにもってきているのは後に「つぐみ」でも使われてはいるが、そのどちらもが、「実際には言っていない」ことには要注意だ。文字通り<<「愛してる」の響き>>に酔いしれているうちに、もうコトは終わっていた感じとも、とれる(あ、まぁチェリーなのでコトなんてないのですが)。
中期作品をここまで聴いてきたならご承知と思うが、スピッツにおいて、この「愛してる」という言葉自体、サラッと言えるようなキメ言葉ではなく、「いつか言う時のためにとっておくキメ台詞」(もちろん寒いが、それは気にしない!)としての機能を果たしている。だから、「愛してる」の次の地平を歌った曲ではなく、「愛してる」を「言う前の」曲である。
最後の<<ズルしても真面目にも生きてゆける気がしたよ>>の方が真実に近いと言うか、まさにこの節のために書かれて前フリのようなものですらある。これから"僕"はズルするか、真面目に、か分からないが、とにかく進むだろう。この童心のまま。その進む道がまた"君"と交差していれば良い。そんな思いを叙情的に描いた曲であると言える。