『ハヤブサ』

(※これは(勝手に)ART-SCHOOLSPITZGRAPEVINEの楽曲を全曲解説していく途上で遺跡となってしまっていたBlog「Self Service」の移植記事です。移植日:18/6/23 オリジナルのポスト日は投稿日時参照)

 


切り刻まれるくらい残酷なまでのセンチメンタル、世界に歪まされていく僕とそれを救ってくれる君、一瞬の嘘とそれへの耽溺…中期スピッツは、名盤『ハチミツ』~『フェイクファー』にかけて徹底して、それらの瑞々しい感性を研ぎすまし、自分たちの方法論を確立すると同時にセールス的な成功を獲得することにも成功した。

その上で、この『ハヤブサ』からは、それを超えて近代スピッツの幕開けである。
…はずなのだが、そのサウンドも歌詞も中期で凝縮してきたエッセンスとは明らかに毛色が違うものが提示されたのも、また本作だった。

前作『フェイクファー』から約2年後にあたる『ハヤブサ』のリリースまでにスピッツの周辺は多くの環境が変化した(この期間、全くの空白ではなくミニアルバムでもシングルでもない、と銘打ってリリースした「99ep」、B面集第1弾『花鳥風月』、そしてバンド初のベストアルバム?『RECYCLE』がリリースされていた)。
それはグッドなものからバッドなものまでとても幅が広く、その変化の中でスピッツというバンドは、一度死んで蘇生した、とも言える(事実、単行本『旅の途中』でもイントロダクションで、そのように語られている)。

 

彼らが迎えた非常に多くの変化の中で特に大きかったのは以下の3点だ(ここでは楽曲解説と離れすぎないように絞ったが、その期間の詳細は単行本『旅の途中』や別冊宝島誌36に詳しい)。

1.現在でもスピッツの5人めのメンバーとも言えるキーボーディストのクージーとの出会い
→その成果が早速「99ep」としてリリースされた(収録曲3曲は、後にB面曲集代2弾『色色衣』に収録されたので、解説もその際に)。これを期にマサムネ氏は「売れるか売れないか」といった彼が初期からとらわれてしまっていたセールス的にどうか、という視点から逃れたセッションが多く行われることになった(その多くは後にシングルのB面に配される曲になった=現在では『色色衣』から聴くことができる)。とは言え、マサムネ氏はこれらの曲を「どこか中途半端だった」とも語ってもいる。


2.レコーディング環境と作品の感触への違和感と試行錯誤
→『インディゴ地平線』よりCDとしての自分たちの作品が、あまりにローファイすぎてハリがないと考えていた4人は自分たちの望む出音としてのサウンドに近づける(マサムネ氏曰く、「耳に飛び込むような音」「スタジオで鳴ってるそのままの感じ」、田村氏曰く「『惑星のかけら』みたいなグランジな音と切ないリヴァーヴ感」「ラウドなロック感をそのままに」、崎ちゃん曰く、「細くない大音量のドラム」が欲しかったと『旅の途中』で書いている。それらを踏まえテツヤ氏は同書にて「スピッツの4人は元々ギター主体のバンドが好きな4人が集まったから特に(ギターの)"歪み"へのこだわりが強かった」としている。どの意見も、彼らの頭で鳴ってほしい音と実際の作品の音が乖離してしまっていたことへの懸念だ。全員に共通するのは、とかく「迫力の無さ」への不満だった)ために、レコーディング環境を変えようと、楽曲単位でもエンジニアを変えレコーディングスタジオ自体も変え、初めての海外(米国、LAやマイアミにて)でのレコーディングやミキシングも経験した。
柔軟に環境を変えたことで、場数も踏み、作品は(一進一退の一面もあったものの)完成するたびに彼らの望むサウンドに確実に近くなってきた。


3.メンバーたち当人の意思に反した名目上のベスト盤のリリース
→1stアルバム『スピッツ』から、彼らは自分たちの作品リリースについてかなりポリシーを持ってきていた。その一つはジャケットにメンバーを映さない、だった(『Crispy!』除く。とは言ってもあれも、まずマサムネ氏だと初見では分かり辛いが)。そのポリシーの中でも大きかったことの一つは、『花鳥風月』の項にも書いた「ベストアルバムのリリースは解散の時」だった。
が、メンバーたちが2のように、レコーディングに頭を抱えながらも没頭している時にレコード会社からベスト盤のリリースをメンバー自身にも一方的に「決定事項として告知された」。
彼らが「自分たちのベストアルバムのリリースのアナウンスを自分たち自身が聞かされた」時に直感的に思った、それぞれの感情は『旅の途中』から抜粋すると、


田村氏:正直カチンときた(中略)ベスト盤ブームに対するアンチテーゼで『花鳥風月』を出したのに、俺たちがテーゼの方になってどうする!
テツヤ氏:(ベストアルバムは解散の時という)発言したことと違うことををするのは格好悪い。
崎ちゃん:そんなことがあるのか。メンバーの意思と違うところでそう言う話が動くのか。
マサムネ氏:正直、拍子抜けした。スピッツをとりまく音楽ビジネスの状況を見ていれば「そういうこともあるかも」とは思っていたから。(中略)「ベスト盤を出すのは解散するとき」と言ってたから、格好悪いなあと思った。


こう列挙すると田村氏が特に怒りを露にしていたように見えるが(マサムネ氏の言では実際にメンバーの中で最も怒っていた、とのこと)、『花鳥風月』に際して自分たちがした、シーンに対しての宣戦布告的なアナウンスが嘘になってしまうという思いは、4人で共通していた。
ファンにベストの発売がスピッツの意思とは無関係であると伝えることを前提として、「最低限の責任」としてタイトル、選曲、ジャケットデザイン、マスタリングに立ち会うこととなった。
リリースされたベスト盤、タイトルは『RECYCLE』(使い回し)、選曲はセルアウトされた自分たちで認める「世間での認知度が高い曲だけ」を選ぶという適当なもの、ジャケットは太極図が描かれた(彼らお得意の「意味のないようにも意味を見いだせそうにも見せる」という意匠さえも排した)本当に質素なプリントの上に「SPITZ RECYCLE Greatest Hits of ZTIPS」と自らを鏡文字にすることで「背信」の意を明確に見せるなど、自虐と言うよりも、自嘲的とまでに映る、半ば痛々しいリリースとなった。
リリース後も、公式サイトでも当初の予定通りファンにアルバムのリリースは不本意であるとアナウンス、FC会報やラジオでは「(自分たちの意向が無視されたアルバムなので)買わなくていい」とまで宣うという徹底ぶり。
このリリースそのもので不信感を抱いたファンもいれば、痛々しいまでの露骨なアルバム内容とプロモーションで「大人げない」と揶揄した者もいた。

 

…と言ったような、一連の流れの中で試行錯誤の中から大きな展望と同時に大きな失意を通過してリリースされたのが、この『ハヤブサ』だ。

なので、当然のごとく、彼らのスタンスを改めて見せるためにも、またレコーディング試行錯誤の末の大きな展望の成果を見せるためにも、作風は中期までとは異なり、暴力的なまでに野心が見えて、エッジの立ったものになっている。
『惑星のかけら』が妄想青年のグランジアルバムならば、この『ハヤブサ』は現実を見据えた青年が一瞬の刹那の時に身を委ねたかのようなオルタナティヴなアルバム。
実際、現時点で見てもここまでの彼らのキャリアで、オルタナティヴ「ロック」色の強い作品はこのアルバムが随一だろう。


試行錯誤の末に体得した、今聴いてもプレイボタンを押した途端に耳の奥まで飛び込んでくるかのような迫力のあるサウンド(それは「ジュテーム?」のような簡素な曲でも同じで、それまでの弾き語りスタイルの曲よりも、圧倒的にクリアに聴こえる)は、どれも最早、昔の妄想青年のものでも、空想好きのキュート男子でもなく、凛々しく立とう「と頑張っている」力強いものだ。

今聴き返してみれば、このアルバムもまた当時の急激ながらも意志をもった彼らの変革の時期だからか『Crispy!』同様に過渡期ゆえのまとまりの無さも感じさせるものの、このハードなオルタナ感を前面に見せつつも肝心のポップセンスは決して手放していないという手法は『Crispy!』のような過渡期ゆえの散漫さが見られない(とは言え、難しいところだ。『Crispy!』はキメちゃってるくらいまでに振り切ってポップなアルバムになっているのに対して、『ハヤブサ』はかなりロック寄りになっているが、当時の切迫していた『Crispy!』の無理しちゃってる感もイケる人からすれば、この『ハヤブサ』は逆ベクトルでありながら手慣れているようにも聴こえてしまうかも知れない)。

プロデューサーに、初めて同年代のex-Spiral Lifeの石田ショーチキ氏を起用したのも、いつもはポップセンスを輝かせるのに、「ハードに演るならいっそぶっ壊すくらいハードにやっちゃえば!?」なんて発言もしてしまえる同氏の大胆ながらも繊細なバランス感覚に惹かれて野心の実現を共にするためである。

サウンドは全体的にポップながらも、どのアルバムよりも野心的なエッジが立ったものであるが、歌詞だけを抽出してみると実は『フェイクファー』からめちゃくちゃ大きな変化が生まれている訳ではなく、むしろ『フェイクファー』の「フェイクでも受け入れ耽溺し切る無邪気に切り裂かれるまでの偽物の世界」があったからこそ、と言えるものになっている。
このアルバムは全体に見れば、先にも書いた様に、「一瞬の刹那に身を委ね、その度々に溺れながらも、いつかはその場所を離れなくてはならない」ことを自覚しているような今までに見られなかった構成になっている。一瞬の刹那に身を委ねきること、溺れきることは、それぞれ初期や中期にも見られたが、このアルバムはさらにその先、どこか没入した後の「醒めた感覚」も持っている。
この感覚はサウンドのまとまりも踏まえて次作『三日月ロック』に昇華されているが、ここでは、ぶきっちょゆえのリアリティとフェイクを交差する言葉が光るのが、偶然ながらも面白いところでもある。

ジャケットはスピッツのオリジナルアルバムとしては初の、歌詞カードを小冊子風に分離した構造をしており、これまた初の縦に見るジャケット。そのジャケットの方は1stの頃からあった「和」の感覚を前面に押し出した、アルバムの内容も相まって暗闇の中で一瞬の"雅"に身を委ねているかのような幻想的な感覚さえにじみ出てくるもの(『ハヤブサ』、がジャケットでは「隼」と漢字表記なのも"和"を演出している)。


ジャケットのついでと言ってしまえばなんだが、たまには機材的な話でも曲解説の補助的に書いてみようと思う。
マサムネ氏はこの『ハヤブサ』期から、ムスタングを大々的にライブ、PV、レコーディングでフィーチャーしている(Fenderのものではない。Fenderムスタングは次作の『三日月ロック』期にPVで使われる)。現在はムスタングの形をしたサイクロン(サイクロンもムスタングの延長線上で作られたギターであるから非常によく似たシェイプをしているが)形態のギターをメインにして、ムスタングはサブになっているが、このアルバムではムスタング特有のジャキッとしたシングルコイルの音色が随所で聴かれる。
「じゃじゃ馬」「おてんば娘」という名前が表す通り、スチューデントモデルのギターとして登場したムスタングは(サイクロンもスチューデントモデルの一つ)、そのショートスケールの小柄な見た目に反して、かなり癖が強い割に操作性が低く、暴れ回るようなサウンドが欠点であると同時に、最上の魅力でもある一品だが、マサムネ氏はこのアルバムでそのムスタングの暴れ狂うようにキュートにギャンギャン鳴り響く音色に「乗りこなす」ことに成功している。
ので、ムスタングファンは、このアルバムを一つのムスタングが光るアルバムとして参考にしてみてはどうだろうか(個人的にはベースプレイヤーだった高校時代の途中からギターも買うことにして、最初のギターから今までずっとムスタングをメイン・ギターにしているが、今でもこのアルバムはムスタングの音作りに迷ったら聴き返している)。このムスタング導入もあえて荒れ狂う攻撃的なサウンドとしての野心の表れにも思える。

テツヤ氏は変わらずレスポールがメインだが、この時期の同氏は個人的には、あえて機材よりも彼自身のルックスに注目したい。
「メモリーズ」や「放浪カモメはどこまでも」のPVでも見られるが、ウルフを通り越してトサカのようになった、まっ金髪のモヒカンカットに前髪をなぜか一部分だけ残しており、そこをワックスか何かでガチガチに固めているのか、文字通り「鬼のような形相」を呈している。それでもギターは相変わらず繊細で緻密なプレイに徹しており、今回暴れるギターはマサムネ氏のムスタングに任せている面も大きいのがまた、テツヤ「らしい」。

田村氏は移り気のしやすいベーシストだが、このアルバムではリッケンベースをフィーチャーしている。The WhoJohn Entwistleに影響を受けた田村氏らしく、暴虐なまでに暴れ回るウワモノの中をメロディアスなベースでマサムネ氏のヴォーカルを引き立てている様がクールだ。

崎ちゃんはこの時期のツアーにおいて、バスドラムにドデカく「隼」と描かれたドラムセットでプレイしていた。その実直なスタイルと「メモリーズ・カスタム」のように振り切った爆発的なドラミングがオーディエンスをアジテイトするのに成功していたことは言うまでもない。


一瞬の刹那の雅に浸りつつ、どこか醒めた彼らの感性は『三日月ロック』で洗練される前にここで無骨に出されている。彼らも、ここまでくると、ナードなロックンローラーではなく、クールなロッカーだ(と「言うフリ」くらいにしているところが彼ららしい)。


2000年7月リリース。

ハヤブサ

ハヤブサ

 

 


1.今
曲としては、前作での「エトランゼ」同様、2分に満たないアルバムのプレリュードのような曲。
プレイボタンを押してすぐに耳につっこんでくる軽快なアコギとマサムネ氏の<<噛み痕/どこに残したい?>>なんていう、今までの何倍も確信的かつ挑発的でエロティックな言葉の痛快さだけに気を取られる事なかれ。
サビが終わるとすぐにマサムネ氏のムスタングが不意打ちかと言うくらいギャンギャンと無邪気なまでにノイジーに暴れ回り、サウンドだけでも中期スピッツとは一線を画しているのを明確に見せるようだ。
歌詞を見てもそれは同じで<<ありがとう/なぜか夏の花>>という、唐突な歌いだしと次の<<渚の~>>は「謝謝!」や「胸に咲いた黄色い花」や「渚」をそれぞれ自ら折り合いをつけた上で昇華した上で、さらに確信をもってアジテイトしているかのようだ。<<笑って/軽くなでるように待ち焦がれた今>>なんてところは『フェイクファー』からの流れを思わせるが、<<いつかは傷も夢も忘れて/だけど息をしてる/それを感じてるよ「今」>>で終わるのは、『フェイクファー』のフェイクでも耽溺しきる今に対して、「傷も夢も忘れて」しまうことを分かった上での、それでも耽溺する「今」という意味で、決定的に違う。
ちなみにサビでの追従するようなコーラスは普段のライブでコーラス担当の崎ちゃんでも、前作での「ウイリー」でシャウトを担当したテツヤ氏でもなく、田村氏がメインで歌っている。


2.放浪カモメはどこまでも
22ndシングル。仮タイトルは「ギターポップNo.1」。
これまた、前曲から一気にエッジの立ちまくったギターが鳴り響くと同時に、すぐにうねり狂ってるかというまでに力強いバンドアンサンブルに入る。メロディとしてはポップなのにアレンジがやたらとオルタナ感を前面に出した曲で前曲とこの曲のイントロの時点で、このアルバムのアティテュードが示されているかのようだ。
<<悲しいジョークでついに5万年~>>から始まる歌いだしは相変わらずの冴えない感じ全開だが、「トンビ飛べなかった」や「鳥になって」や「海ねこ」といったそれまでの鳥系の曲(?)と全く違うのは、いくら冴えなくても、放浪カモメは自分自身であって、"君"が放浪カモメになってつれていってくれという曲ではないところだ。むしろここでは、放浪カモメになって玉砕覚悟で君に突撃すると言ったまでに勇猛果敢(?)なままに、なりふり構わず突っ込んでいってる様が逆に格好良い。
ラストの<<パジャマのままで受け止めておくれ>>というところが、ちょっと中期の名残を残すキュートなフレーズである。
マサムネ氏の言では「放浪カモメ」のカモメに対して、「動物で欲情が激しくて相手に投げやりなまま突っこむのはヒトとサルとイルカとカモメだけ」という言葉にインスピレーションを受けたので使ったとのこと。ヒトやサルはもう既に何度も曲にしてきているし、イルカは「ドルフィン・ラヴ」があるので、ここで初めてカモメのお目見えということだ。
ちなみに、ジェンダーセクシャルマイノリティなどを主題にエロティックな要素を見せつつ揺れる恋のキュートな感覚を水彩画っぽいタッチで見せる、漫画家・志村貴子氏は代表作の一つ『放浪息子』の一つのエピソードで「放浪息子はどこまでも」とタイトルにし、露骨にこの曲を借用している。


3.いろは
仮タイトルは「ピュンピュン」。シンセの音色がピュンピュンしてるからだろうか。間奏などのシンセベースはTB-303っぽくもある。
前曲の流れを受けてエッジの立ったギターストロークと官能的なまでに繰り返されるアブストラクトなシンセの音色が印象的なイントロ(この音響プロダクションは石田氏とマサムネ氏の共同作業)。
「いろは」(実の母親)というタイトルは、歌詞中での使われ方からするに「ミーコとギター」のようなインセストを思わせるようなものというよりは、母性を感じさせる相手との情事の曲であるように思う。
何よりも衝撃的なのは、<<俺の秘密を知ったからには/ただじゃ済まさぬ/メロメロに>>や<<まだ愛はありそうか?>>などといった「今までのスピッツのヘタレ感はどこに行った!?」と言わんばかりのこれまた挑発的なまでに歌いのける様だ。<<暗い谷間へ~>>なんて隠喩的ではあれど、情事を表しているようにも聴こえるし。
また「ポルトガル」なんて、邦楽シーンではまず歌われそうにない国名を出しているのも面白い。


4.さらばユニヴァース
さて、前作から一転した挑発的なまでの野心が見えたスピッツは一旦ここまで。
サウンドは以降も、今までよりもかなりオルタナティヴに激しい曲は幾つもあるが、歌詞面では少し、それまでの妄想しがちなナイーヴな青年に戻っていく感がある。
それを象徴するのが、この「さらばユニヴァース」。仮タイトルは、「指輪・宇宙」(まんまですね)。
<<半端な言葉でも暗いまなざしでも何だって俺にくれ!>>という歌い出しがキュートだが(特に「!」のところ)、基本的には「ルナルナ」に近いオナニーソングに近いような、かなり"俺"側の気持ちが強い曲。
<<引き合ってる/絶対そう/君はどう思ってる?>>の一節とか、実際「"君"が望むようなデコボコ」への思いがあるからこそ、出てきてるのだけど、やはりこの節を取り出していくとかなり妄想に近く聴こえてしまうのはなぜだろう。
マサムネ氏のストロークの激しいアコギとムスタングのジャンクな音色が混ざり合う様がクールであるがゆえに、余計にそこが引き立っている(褒め言葉)。


5.甘い手
「ナイフ」に次いでスピッツの中で2番めに長い曲。
サウンド的にはそれほど似ていないのに、「シュラフ」的な暗闇の中でのドラッギーな感覚が再び戻ってきているように聴こえる。
<<言葉も記号も忘れて>>は、前作での「謝謝!」での「記号化されたこの部屋」を思わせ、かつそれを捨て去るという意味では近いメンタリティだが、こちらの方がフィードバックがかかったスペーシーなサウンドゆえに、全く違った幻想的な世界を感じさせる。
<<はじめから/はじめから/何もない/だから今/甘い手で僕に触れて>>と、エロティックなのだが、それも中期のような過度の感傷よりもどこかで諦観を持ちつつも君に溺れていく様を描いているようだ。
<<愛されることを知らない/まっすぐな犬になりたい>>は、次作での「ローテク・ロマンティカ」でより強気(なフリ)になって使い回されている。
ちなみに間奏の陰美な響きで流れるのは、マサムネ氏が感動したというロシア映画『誓いの休暇』のワンシーンをサンプリングしたもの。


6.Holiday
ここでスピッツとしては「初めてアルファベットのタイトルの曲がきた!」と思ったら、それはまさかの自他ともに認めるストーカーソングだ。
とは言え、メンバーも認めるストーカーソングと言うのは初めてではあれど、この曲を聴いてから「ラズベリー」なども聴きえ返してみれば、意外と素でストーカーソングっぽく聴こえもするのが不思議なところではある。
しかし、こちらはさすがはメンバーも認めるストーカーソングだけあってストーカーっぽくなってしまうダメダメ男子の嘆きが凝縮しているようで、切ない。
「チェリー」を使い回したようなギターストロークをテンポを上げて演奏されるアンサンブルが快活だが、いくらフレッシュにしても、やはりストーカーの悲しい性がそこかしこに出ている。
<<もしも君に会わなければ/もう少しまともだったのに/もしも好きにならなけてば/幸せに過ごせたのに>>と、のっけから、かなり全力でストーカーちっくな恋心を君のせいにしつつ「君をふらふらと探す休日模様」を描いている。
しかもそれだけではない。2番のメロでは<<いつか/こんな気持ち悪い人/やめようと思う僕でも/なぜか険しくなるほどに/すごく元気になるのです>>と、"気持ち悪い"自分を自覚した上での、まさかの開き直っての(精神的な)マゾヒスト宣言である。「ラズベリー」よりも自信なく歌われてる分、余計なまでに本当に「気持ち悪い」感じが出ていて素晴らしい。
そして間奏で、<<古い/暖かな部屋に君を呼ぶまで>>と、もしかして、これは別れた"君"に向けた復縁を狙おうとする曲(あるいは、昔の恋を忘れていた頃ーー『幻のドラゴン』のようにーーの自分の隙のある恋心のスペース)なのだろうかと思えてしまうのも束の間、<<もしも君に会わなければ~>>とまた全力で君のせいに戻っていて…切ない。
個人的には「ナイフ」が強烈に歪んだグロテスクなヤンデレ曲だとすれば、この曲はライトにヤンデレ的と言うか、パラノイアックなんだけど、妙に明るくてアッパーに変態的と思います。


7.8823
自他共に認める「ロック」バンドとしてのスピッツの代表曲が、この「8823」。
アルバムタイトルを数字で表記(自分はポケベル世代ではもちろん、ないのだけれど昔のポケベルってこんな感じで表記したのかしら…?)したタイトルトラックだ。
何と言っても抑揚がきいてかなりタイトで精密ながらも非常にアグレッシヴな崎ちゃんのドラムとテツヤ氏のギターのゆるやかなグルーヴ、そこから田村氏のファンキーなベースとマサムネ氏のムスタングのソリッドなギターが入ってきて(このファンクっぽくパンクっぽい感じはThe Policeを意識したものだ。メンバーの中でも特にPoliceが好きな田村はかなり良い味を出している)、しかし、すぐには高揚には至らず、焦らすかのように抑揚をつけてプレイされたメロ部分から一気にサビで爆発する演奏が最高にクールでパンキッシュだ。
静→動へ、動→静へ、また動へとゆるやかに、唐突にブーストするように切り替わるサウンドだけでも確信的だし、スピッツにしては破格の色気さえあるオルタナ・ソングであるが、歌詞の方はそれに負けず劣らず妄想青年のエロティシズムではなく、"君"に突き刺すかのように確信犯的なまでに焦燥と欲望を歌いきっていて、さながら「LOVEと絶望の果て」へのジェットコースターのようだ。
抑揚のきいた(あたかもライブ演奏のような)生々しいサウンドの上でのる言葉は<<あの塀の向こう側/何もないと聴かされ/それでも感じる/赤い炎の誘惑>>とまさにエロティックなものだが、何よりもそのアクティヴな心境が中期とは全く違う。今までならば、君に突っ込んでいこうにも妄想ありき、現実を見据えていても"君"の向こう側に見える理想ありきだったのだが、その「向こう側でも良い。ただその果てを見たい」と言い切っている様はあまりに清冽だ(「胸に咲いた黄色い花」とは対照的だ)。それは<<夜明けを吸い込み/すぐ浮き上がって/裸の胸が触れ合ってギター炸裂!>>のように初期に見られた少年っぽさを、そのままむしろ閉じた意向として用いるのでなく、「打って出ている」かのような2番のメロでも同様だ。
さて、ブーストされたサビでは連呼される<<誰よりも速く駆け抜け/LOVEと絶望の果てに届け>>はもちろん、<<君を自由にできるのは宇宙でただ1人だけ>>と歌いきる様があまりにクールにすぎる。今までの空想癖のあった内省的なスピッツが、能動的に溺れに行っている上に、「君を自由にできるのは宇宙でただ1人」とつまり"俺だけ"と"君"に宣言してしまっている。ここまで男気クールなのは、スピッツのキャリアの中でもこの曲が随一ではないだろうか。
言うまでもなく、特に2番の<<君を不幸にできるのは宇宙にただ1人だけ>>は、「自由」にできる存在としての"俺"でなく、毒入りのケーキである"俺"をも表しており、背伸びして歌っているというよりは、ようやく歌えたか!という思いだ。今までは、さながら逆で「僕を不幸にできるのは君だけ」にも似たペシミスティックな部分も多かったのだから(無論、それはそれで素晴らしいのだが)。それを考えると、「惑星のかけら」の、やや唐突な<<僕に傷ついてよ>>の暴力性をもった響きよりも、むしろ歌い切った感があるとさえ思えてくる。
この曲は、そういった歌詞とサウンドの相乗効果で、現在に至るまでのライブのアジテート・ソングとなっており、ほぼどの公演においてもプレイされていて、演奏する度にオーディエンスにロックバンドとしてのスピッツを叩き付けている。またこの曲がプレイされた時には、ステージングにも要注意だ。この曲は、「俺のすべて」よりもさらに上の、田村氏の激しすぎるステージングが見れる曲でもあるのだから。ツアーの模様を映した限定生産DVD『放浪隼純情双六』を筆頭にライブDVDなどでもその模様はバッチリ収録されているが、ステージを縦横無尽に駆け回りシールドが抜けたりストラップが外れても問答無用で叩き付けるように弾き続け(最早、シールドが抜けているので音も鳴っていないのだが)た挙げ句、ローディーの静止も無視して暴れまくり、崎ちゃんのシンバルまで素手で叩き出すというあまりに衝動的なステージングが拝める。もちろん、ここでは普段、あまり目立たない田村氏が「リーダー!」とオーディエンスの絶叫をもって迎えられる場面でもある(ちなみにその間、他のメンバー、特にテツヤ氏と崎ちゃんは大概、苦笑している)。ちなみに他、田村氏が暴れる曲としては(「俺のすべて」)、「けもの道」などがある。
シーンの後輩、アジカンが主催する「NANO-MUGEN Fes.09」に出演した時のコンピに収録されたのも(リリースから相当の年月が経っていた)この曲であるあたり、スピッツでライブと言えばこの曲と言っても過言ではないくらいの迫力を持っている。
タイトルは後に漫画家・犬上すくね氏が『恋愛ディストーション』内の台詞で引用。


8.宇宙虫
「花泥棒」以来のテツヤ氏による曲であり、現時点で最新のテツヤのみの作曲。
リコシェ号」以来のインストでもあるが、あちらは一応「ゴゴゴーリコシェー」というマサムネ氏のVoが入っているので、歌なしの完全なインストは初。
「エトランゼ (TANAYA MIX)」のようなスペーシーながらもミニマルであるが、インディトロニカ的と言うよりはアンビエントに近い。ちなみにクレジットを見ても、プロデューサーの石田氏が「Some Electronic Device」と併記されているだけで、レコーディングもほぼテツヤ氏1人で行われたようだ。


9.ハートが帰らない
「ヘチマの花」以来の女性アーティスト(くるり「Hometown」などでもコーラスに参加しており、マサムネ氏が詞を提供したこともある五島良子氏)とのデュエット曲。
テツヤ氏の手がけた「宇宙虫」をバッキングで鳴らしながら、始まるので「宇宙虫」はこの曲のイントロ的な役割に聴こえる。
昔の恋人を思いつつ失恋ソングには落ち着かない、どこかで復縁を妄想しているような曲。ギャンギャンと鳴るバンドアンサンブルの上に乗った2人のデュエットが可憐だ。
あまりそこは強調されないが、何気に、この曲も春の曲あるいは春を思い返している曲である(<<両手広げてアドリブで歌い出しそうな春だった>>)。
最後の<<愛しい人よ~>>の流れで、「甘い手」や後の「俺の赤い星」とともにこのアルバムのダークな一面を見せる曲。


10.ホタル
21thシングル。
中期に戻ったかのようなセンチメンタルなアルペジオとマサムネ氏の「初恋クレイジー」以来のブルースハープの響きが切ないサウンドだが、当初のスピッツは、この解説のイントロダクションにも書いた通り、中期的なアプローチは意図的に排したがっていたが、石田氏がそのスピッツらしいメロディセンスに惹かれて強くレコメンドしたことでシングルとしてリリースされたものである。
メンバーが却下しようとしたことも分かるくらいサウンド的にも歌詞的にも結構中期の流れを明確に残している曲で「ホタル」というタイトルに反して、かなり生命の神秘や宇宙といった「流れ星」からの流れが見える。この曲は改めてのスピッツだからこそ、練り上げられたハイファイさで中期っぽいエッセンスを出していることで中期が特に好きなファンから好意的に受け入れられているが、個人的には、やはりこのアルバムの流れで聴いてみると、ややもすれば浮いて聴こえてしまう感覚がある。<<僕のすべてを汚してほしい>>など曲単位では歌詞の良いフレーズも多くあるのだが、リリースするタイミング的にどうしても若干、損をしている感じはある。
ただ全く『ハヤブサ』らしくないかと言われればそうでもなく、もしこれが中期の曲としてリリースされていたらかなりダークに映りすぎていただろうし…と、(勝手に)全曲解説としては少々扱いが難しい曲だ。
ただ中期よりもさらにエッジのたったバンドサウンドの上に乗るブルースハープは実験的な響きもして良い。


11.メモリーズ・カスタム
22thシングルである「放浪カモメはどこまでも」との両A面シングルの「メモリーズ」のアルバムver.…と言っても、大胆なまでにオルタナティヴにリアレンジされたプレイスタイルはもちろん、新しいCメロが付加されいることもあり、原曲からはかなり離れたものになっている。事実バンド側もそう認識しているようで、『色色衣』には原曲のシングルver.が収録されている(ので原曲の方は『色色衣』のページで書きたい)。
歌詞面の大まかな部分も原曲と一緒ではあるので原曲の方で書こうと思うが、ここでは前述のようにCパートが新たに挿入され、歌詞も加筆されている。しかし、この挿入された歌詞は、どこか賛否両論の感がでているのは一つの事実かも知れない。原曲の方はある程度、抑制されたギターポップに反して、そのどこかで拭いきれない<<引っ張り出したらいつもカビ臭い>><<メモリーズ>>を自分でも掘り返してはいけないと分かりつつ、それでもその思い出に引き寄せられ、蝶になる(「蝶になる」のは「恋は夕暮れ」以来だ。「恋は夕暮れ」も反復する歌詞と蝶の対比が面白いが、この曲も反復するメモリーズと蝶の対比が秀逸)と一方的なままに突き抜けて行くナードな感覚が鋭いが、ここでのCパートは、サウンドに引っ張られるかのように確信的に自らを肯定しているようにも聴こえる。<<明日を描いて/幾つも描いて>>と続くとあまりにも希望に満ちているが、これは突き抜けすぎたゆえとも取れる。難しいところだが、個人的には、流れがスマートだからか、それほど悪印象はない。
大きく変わったサウンドの方は何よりのっけから炸裂するフィルたっぷりのパワフルかつパンキッシュな崎ちゃんのドラムが素晴らしい。それをアジテートするかのようにテツヤ氏のギターも暴虐に暴れ回っているし、田村氏のベースも2番ではグルーヴを保ちつつ、フィルを多く挟んでいる。
これまた、「8823」同様にライブで盛り上がらないはずはないだろう。


12.俺の赤い星
「ほうき星」以来の田村氏作曲。
『惑星のかけら』期に回帰したかのようなダークなグランジとシューゲイズが混在したようなカオティックなサウンドが魅力的だ。また、歌い出しのマサムネ氏のボイスが生々しい。
歌詞も、かなり主観的で<<他人のジャマにならぬように生きていた>>"俺"の前に<<一度だけ現れ>>た鈍く輝く<<赤い星>>に、撃ち落とされること覚悟で突き進んで行くというもので、これまた超初期の感覚を思わせる。かなり絶望的なまでに玉砕覚悟とまで言わんばかりの血走った感じが「俺の赤い星」への思いを体現している。
ここで面白いのは、中期でみられた、「世界に歪められる僕とそれを救ってくれる君」の構図をあえて排除しているかのように聴こえるところだ。前述のように「世界に歪められる僕」の感覚は色濃いが、ここで「俺の赤い星」の方は"俺"を救うとまでは言いがたい、どこか理想めいた、もっと言ってしまえばパトスを喚起させるメタファーのようにも響く。ラストの<<どこに/俺の赤い星>>と嘆くように歌っているのも含め、一貫して破滅的であるのが恐ろしい。


13.ジュテーム?
『空の飛び方』前後から、アルバム最終曲ではさりげなく意味深な曲(『空の飛び方』での「サンシャイン」、『ハチミツ』での「君と暮らせたら」)で終わる、というテーゼ。今回の『ハヤブサ』ではアルバムの性質と構成上、その部分を担っているのは、次曲の「アカネ」と、この「ジュテーム?」の2曲だろう(『フェイクファー』のラスト2曲のように)。
タイトルからして、露悪てと言うか、ただ2人で暮らせてハッピーハッピー幸せでした、では終わりきらないマサムネ氏らしい感性を如実に映し出している。「ジュテーム」(Je 'taime)は直訳すると「愛してる」なのだが、疑問符「?」を見落としてしまわないリスナーの方が少ないだろう。ここでの「?」は、例えば「空も飛べる『はず』」の「はず」を、より露骨に出しているとも言えるだろう。
一筋縄でいかないのはタイトルだけではない。
歌詞中でその進行に伴って、「ジュテーム」の後に続く記号は、「ジュテーム?」→「ジュテーム…」→「ジュテーム!」と、だんだん「愛してる」ことを肯定している…はずだが、それの前後の言葉は「?」<<うれしいぬくもりに包まれるため/いくつもの間違い重ねてる/「?」/バカだよな>>、「…」<<別にかまわないと君は言うけど/適当な言葉が見つからない/…/そんなとこだ>>、そして最後の「!」は、意図的に前の文脈を不透明に見えるようにしている上で、<<これからも>>と歌っているが、続く最後の言葉は<<君がいるのはイケないことだ/悩み疲れた今日もまた>>である。
これは、どこか『フェイクファー』の季節を過ぎて、「フェイク」に溺れている自分をどこかで醒めてみている自分が生まれ始めている感覚を表しているようにも思える。<<いくつもの間違い重ねてる>>し、それは<<これからも>>なんだけど、どこかでやはり「君がいる」という危なさを自覚しているのだ。「君がいる」ということはもちろん<<素敵なことだ>>し、<<優しくなる>>のだが、どこかで<<悩み疲れ>>てしまう部分が生まれている。
これからスピッツは、これまでよりも、この"君"がいること、それそのことに対して、歌っていくことになる。つまり、"君"は確実にいるのだけど、そのリアリティを持った"君"とどう向き合うか、を。マサムネ氏が元来持つキュートなフェイク入りのロマンティシズムとグロテスクなリアルとの拮抗する世界は、続く『三日月ロック』で、近代スピッツの一つの頂点を越えることになる。
サウンドの方は、マサムネ氏のアコギのシンプルな弾き語り(ほぼ重ね録りされておらずほとんど一本のギターで弾かれているように聴こえる)と胡弓のエキゾティックな響きが、"君"がいることへの戸惑いと希望のアンビバレントな感覚を如実に映し出している。


14.アカネ
時には宇宙に飛んだり、時にはストーカーになったり、ふらふら蝶になったりしていた幽玄なこのアルバムも、この超特大のパワーポップの「アカネ」でラストを迎える。
イントロから、あまりにも(例えばThe PosiesMatthew SweetTeenage Fanclubなどのような)90'sパワーポップ勢のようにキラメくギターとタイトなリズム隊(テツヤ氏以外のメンバーのハンドクラップも素敵だ)が、<<晴れの予報もハズレたけど/朱くかすむ/夕陽を待とうか>>のように、夕暮れの時でなく夕暮れを「目前にして」<<あふれる涙を/ふきながら>>凛と立ち、そこから歩き出す様をセンチメンタルながらもパワフルに描き出している。
まさに、これまでのスピッツ自身を自ら顧みながら、それを後悔することはないけれど、そこに留まらず、夕陽を目指して歩き出す小さな決意のような曲であり、とても清々しい。
実際、これまでも期待をしては、「晴れの予報」はことごとく「ハズれ」てきたけど、それでも<<ゴミに見えても捨てられずにいた>>し、<<身体のどこかで彼女を思う>>し、<<また会おうと言った>>のだから、どうにか「涙をふきながら」歩き出さなければならない。
特に「身体のどこかで彼女を思う」は耽溺していた、あのフェイクの季節の輝きを忘れられずにいる。だからこそ、歩き出すのだが、そこはスピッツ。ただ優しくセンチメンタルなだけではない。<<悲しい日には嘘つき歌ひとつ/歩き出そうか>>である。これは、次盤の「ババロア」の冒頭にも似た感覚があるが、「嘘つき歌」があるからこそ、「歩き出せる」のである。その「嘘つき歌」の感覚は、今でも同じだ。
しかし、このアルバムは実はまだ、その決意を示しただけで、<<朱くかすむ夕陽を待とうか>>と、夕焼けを「待っている」状態で終わる。一瞬の刹那に身を委ねつつ、そこに醒めた自分が介在している感覚。そして、そこから「歩き出すぞ」という決意「だけ」で終わっているところが前のめりすぎずにいて素晴らしい。
それを表すように、次盤『三日月ロック』は1曲めから、「夜を駆ける」という曲で始まる。それは、「アカネ」に向かって「歩き出し」た先だと言うと、あまりに出来すぎた深読みのようだが、事実、このアルバムから、『三日月ロック』を流して聴くとそんな感覚が浮かぶのも事実だ。