アルバムリリース!!G/Vo(後編)

(※これは廃墟となっていた過去のバンドBlog「Bathtub」からのサルベージ記事です。サルベージ日:18/6/22 オリジナルのポスト日は投稿日時参照)

 

(承前)
前編で挙げたように、今作は多くの方々の関係によって成り立っている(それこそ前に挙げたようなパブリックとして、関係して下さっている方から、プライベートで関わって下さっている方まで…)。

そして、今作は全ての曲において、「関係性」について歌っている。

時に奪い合う、時に与え合う、時に魅かれ合う、時に全く興味のない振りをしてしまう、時に他者を遠景化して恐怖し身を縮こませ、時に「君」に耽溺し、時に「あなた」を畏怖し、時にエロティックに、時に情欲とも形容し難い自分でも制御しきれない「想い」に溺れてしまう、そして別れを告げる……多くの関係性を歌っている。


最初のテーマとして、今作は全曲、広義でのセックスソングのみを詰め込んだアルバムにする予定だった。
「君」との関係に溺れ、息継ぎ無しに、「君」の吐いた息を吸い込み、もつれ合って、でもそれでいて、どこかで「君」とは別の、「彼ら」だったり、「あなた」だったり、1人の時を夢想するような、近くて離れたいアンビバレントな関係を綴るような作品にしたかった。
もし今作を聴いいただいて、セクシャルな面を感じることがあるならば、その一端が表れているのだと思う。

しかし幸運なことに、その目論見は完遂されることはなかった。
と言うのも、アルバム制作に1年もかかったことで、僕の他者への目線が変わったこともあるし、メンバーの無言の意見をどんどん汲み取っていったこともあるからだ。


それはサウンドに合わせて、時に柔らかに、時に切なげに、時に強情に、時に明滅と共に鳴り響く警笛の如く幾様にも変化していった。
最早、それはセックスソングでもラブソングでも、フェアウェルソングでもなく、ただただ「関係」ソングになった。


そして出来上がったのが、この日常の中のポップでグロテスク、アンビバレントなアルバムだ。

前に行われたインタビューで語っているが、最初は半ば適当に付けられたこのタイトルが、妙なことにアルバムのスタイルを表しているようにも思う。

僕は歌詞を書くときに、「もしこんなシチュエーションだったら…」と想像しながら書くことが多いが、今作の中で書かれたのは、そんな「もしこんな状況に置かれたら…」と想像しながら作られた曲である。
それぞれの曲がどういった状況に置かれているか、それはリスナーの皆様方の想像に委ねさせていただきたいし、皆様方の「今」置かれている環境によって変化もすると思う。
僕自身、こうしてパッケージになってしまえば、どの曲がどういった状況に置かれているのか把握しきれない。曲自身が曲自身で勝手に歩いているし、主張しているんだろう(と思う)。


それに古い曲では2010年の夏からあり、新しいものでは2013年の曲まである。
その中で僕自身の置かれた環境も大きく変わっている。内に数少ないささやかな出会い、大きな離別、諦観したようにローに過ごした時期もある。今も続いているかも知れない。しかし、それは作品としては、はっきり言ってどうだっていい。


もっと極端に言ってしまえば、今作の中でメッセージと言えるものは、僕個人の見方では、ない。
今作で歌われている曲は、どれも僕自身であるし、どれも僕自身でもない。歌われているのは、「剥き出し」の関係だ。
幸運なことに、どの曲の主人公たり得る主観も、正直な気持ちだけを切り取って言葉にしてくれている。
彼らは彼ら自身が感じている心情を吐露している。彼らは彼ら自身に置かれた状況の下で、自らの本心を吐露しているだけで、そうなると僕自身でも彼らの全てを把握しきれない。
彼らは僕自身によって書かれたものであるけれども、それ以上にBathroom Sketchesのメンバーとして関わってきた人たちによってできた存在であるからだ。

 

…と、あかん。やっぱあかん。
何か普通に自分のアルバムをリリースに際して紹介しようと思ってたのに、何かレコメンド調の文体になってる。恥ずかしい。やっぱり自分で自分の曲を語るとか無理や。。

 

いやー僕だけかも知れないんですが、自分で自分の曲を話す、しかもインタビューとかでなく普通にブログでひとりでに、となったら変に緊張して訳分からん言葉になってしまう。何なんでしょうね…。。

僕自身は正直、意識が次のアルバムに向かっちゃってるくらいなのに!!
次のアルバムは、今作である程度出し切った日常のポップな毒素を「横切って」、また違うアルバムになると思います。
サウンドも今作に収録されなかった、テクノポップな曲、渋谷系っぽいちょっとニッチでジャジーな曲、スウェディッシュポップぽい曲、エモっぽい焦燥感のある曲、率直なギターロックっぽい曲、インディトロニカっぽい曲とか色々ストックがあるので。。
歌詞もまた結構違うと思うなぁ…多分「関係性」は基調にし続けるだろうけど、今回の9曲とはまた違う関係性の曲になってると思う。
女性メンバーがまた入ったことで歌詞の書き方もまた変わるやろし。かなり影響されやすい質です。

 

…と言う事で長くなっちゃいましたが、この辺りでアルバムリリースに際してのブログはひとまず終了です!

 

アルバムリリース!!G/Vo(前編)

(※これは廃墟となっていた過去のバンドBlog「Bathtub」からのサルベージ記事です。サルベージ日:18/6/22 オリジナルのポスト日は投稿日時参照)

 

本日…と、言いつつ、このブログを書き終えた時には既に日が変わっちゃってると思うので、昨日、ですが…Bathroom Sketchesの1stフルアルバム、『(Across the)Yellow Town, Pink St.』がリリースされました!!

現在は、公式HPから銀行振込のみの対応となっておりますが、すぐに公式HPでのクレジットカード決済、Amazonでの販売も対応できると思います。レーベルさんからは、今日、無事、Amazonへの出荷準備が整ってきていると連絡をいただきました。


《現時点での簡単なお買い求め方法!》
Bathroom Sketchesウェブサイト内「CONTACT」のフォームに「氏名・送り先の郵便番号/住所・希望枚数」を入力の上、送信→Bathroom Sketchesより振込先銀行口座の連絡メールが届きます→銀行口座に振り込んでいただいて、確認が取れ次第、こちらから発送
という手順になります。

 

(相変わらずの長文なので前後編に分けています)
さて、無事アルバム完成し、製品としてリリースすることができた。このアルバム、本当に制作期間が長かったと思う。
2ndデモ『January Plot.ep』ができたのが昨年の2月。
そこまでで収録曲はほとんど出そろっていたのけれど、昨年の夏頃からレコーディングが始まり、マスターアップしたのが今年の7月。およそ1年、曲が出そろってからは1年半かかった。
収録曲数に対しての制作期間の長さから、当然のごとく、順風満帆に作業が進んだとは言い難い。

昨年夏にドラム録りから始まって、時にはレコーディングスタジオで、時にはリハーサルスタジオで、時にはメンバーの自室で、時にはエンジニアさん宅で…いたる所でドラム以外のパートが録られた。
時にはDAWに向かう人数がメンバー含め3人だったり、それぞれのパートを録っている内にミーティングをしたり…僕はフロントマンという立場上、全ての現場に居合わせたのだけれど、バンドとしても、メンバー個々人としても、エンジニアさん方(関わったのは3名に及ぶ…)としても、とても長い時間がかかったと思う。


もちろん、長時間に及ぶなかで、方向性の相違やモチベーションの維持の難しさから何度となくミーティングが行われた。その中で、オリジナルメンバーであり僕達のバンドのリスナーとしての音楽への貪欲さが人一倍強かったリョージくんがサポートメンバーになるという事態も起きた(リョージくんは収録曲の内1曲を除いて全ての曲のベースを弾いている)。エンジニアさんは結果的に2人が離脱してしまった。
それは度重なる話し合いの末の結果であることもあったし、ある日突然、ということもあった。


転機となったのは3つ(と思う)。

最初は昨年の12月、僕達にとって初めてのエンジニアだった僕の大学での後輩が、彼自身の生活苦と我々バンド側の意欲の大きさから離脱してしまった時だった。
紆余曲折あったが、ここから本格的なレコーディングスタジオでセルフプロデュースで制作することが決定した(僕個人の彼との仲は今でも良好ですよ!)。


次に、先にも挙げたリョージくんが、モチベーションの差異により彼がサポートベーシストとなった時だ。
それまで僕達は、時には昼に、時には夜通し4人で度重なるミーティングを行った。彼がサポートベーシストとなるのは、僕個人としては本当に苦渋の決断だった。何より、3年以上一緒に演ってきた旧知のオリジナルメンバーだし、彼の最初の言葉がなければ、この作品はBathroomsではなく、青野ソロの作品として出されていたかも知れないくらい、このバンドの方向性を裏で大きく握っていたのが彼だった。葛藤の末に彼はサポートベーシストとなった。帯を締め直すように緊張感に包まれた。
そんな彼はサポートベーシストとしても、その立場以上に、素晴らしいベースを今作では響かせてくれている。特に「Affairs」で流れるように弾かれる彼のお得意の流麗なベースライン、「カリフォルニアン・ロケット」で弾かれるエッジのたったウワモノと騒々しいドラムの合間を縫うように動き回るベースは、曲に素晴らしいアクセントを付け加えると共にBathroom Sketchesのサウンドを印象づけるのに非常に大きな役割を担っていると思える(もちろん、僕個人の彼との仲も今でも良好ですよ!)。


そして最後は、今作中6曲のミキシングを担当してくださった高倉さんが今年の6月に突然、レコーディングスタジオを去られたことだ。
とても気さくな方で、僕達メンバーが意見の相違でお互いが言い出せない時も、陽気なノリで場を和ませて下さった。高倉さんのおかげで僕達はいつも緊張感と同時に穏やかな気持ちでミキシングルームに入っていた。それでいて、アウトなところは、はっきりとアウトと伝えて下さる方でもあり、OKテイクが出るまで根気強く僕達のレコーディングに付き合って下さった。
今回のアルバムはセルフプロデュースということになっているが、実質的に数曲は僕達と高倉さんの共同プロデュースであると言っても過言ではないかと個人としては思っている。また彼はプレイヤーとしても僕達の楽曲に関わって下さった。彼のアイデアの一端は「Into Your Bathroom」で彼自身の手で弾かれたオルガンの音色に表れている。
そんな彼が去られて一旦、僕達は途方に暮れていた。

しかし、新たに京都から全国的に活動しているインストゥルメンタルロックバンドとしてFUJI ROCKにも出演経験のあるjizueの井上さんがエンジニアに就いて下さることになり、その緻密でプロフェッショナルなエンジニアリングで今作は無事、完成した。
井上さんのエンジニアリングの妙は「Kinky Ape」の縦横無尽に飛び交うシンセの音色とインプロっぽくなる間奏のVoと楽器のバランス、そしてアウトロでの右左に交差する笑い声(これ全て僕の笑い声をサンプリングしてめちゃくちゃなまでに加工したものです)の連続に特に顕著に表れていると思う。



決して前途洋々とは言い難い1年だったと思う。
しかし、Bathroom Sketchesとして最も濃密な1年だったことは確か。


制作当時の4人のメンバーやエンジニアさんのほかにも、このアルバムは多くの方の協力によって制作された。


「水槽」「Affairs」では、それぞれサビで新メンバーの但馬さんのウィスパー気味のコーラスを聴くことができる。ジャケットアートワークは全て、過去にドイツオレンジのジャケットも手がけてきた、東京のイラストレーター、岩沢さんによるものだ。
彼女については語り出すとゆうに一つのブログ記事になってしまうので、またの機会に書くとして、その淡く、しかし、したたかなイラストレーションで今作は音楽が持っているものを余すところなく、それどころかそれをも超えて素晴らしいパッケージとなっている。彼女のアートワークについては、本当にまた別記事で書こうと思うけれど、表ジャケの水中の中で虚空を見つめるように佇む女の子は、このアルバムのスタイルを絵で端的に表していると僕は思う。
岩沢さんの絵の持つ淡さと、傷口を抱えながら、それでも微笑む、あるいはこちらを柔らかく見つめる魅力で僕達のアルバムを彩っている。
このジャケ、イラストをご依頼してほんの2,3日でラフスケッチが送られてきて、度肝を抜かされた。他にも、盤面のデザインや「彼女直筆の」歌詞カードとパッケージのほとんどの部分は彼女の手によるもので、僕個人としては、このアルバムは、パッケージは僕達と岩沢さんの共作とさえ、恐縮しながら思っている。


それだけでもパッケージとして素敵なのに、それを「完成型」にまで導いて下さったのが、これまた関東からのライター、犬飼さんによるライナーノーツだ。
犬飼さんについても語り出すと、これまたゆうに一つの記事になってしまうが、彼のライナーはBathroom Sketchesというバンドがいかなるバンドか、そしてそれをも超えて、「行き先不明の僕達」という普遍的な不安と希望をも、多くの海外アーティストを引用しつつ余すところなく語って下さっている。
犬飼さんは僕よりも10歳も15歳も歳上で、80(70??)年代から数多くの海外アーティストと邦楽アーティストを聴いてこられたライターさんで、僕自身、一読者としても毎度、瑞々しく清冽な文体に魅かれていたのだけれど、恐縮ながら、今回ライナーをご依頼したのは御自身も長くバンドマンであった経験をもったライターさんであったからだ。実際にバンドでプレイしてこられた方の文であるから、本当に魅力的で真に迫るライナーになっている、そう思います。このライナーも岩沢さん同様に、マスターアップしてすぐに、草稿が送られてきて、改めて度肝を抜かされた。本当に頭の上がらない思いだ。

アドバイザーには、佐藤さんを迎えている。


さて、長くなりすぎたので後半に続けたいと思う。

バンドブログ

(※これは廃墟となっていた過去のバンドBlog「Bathtub」からのサルベージ記事です。サルベージ日:18/6/22 オリジナルのポスト日は投稿日時参照)

 

Bathroom Sketchesブログ、「Bathtub」はじまりましたね。。
京都/大阪のインディー・ロックバンド、Bathroom SketchesのGuitar/Vocal/Synthesizer、作詞・作曲・編曲をしています。バンドの発起人で現在残っている唯一のオリジナルメンバーです。。


さて、自己紹介及びバンドの紹介はとても最低限。これくらいにして、他のメンバーに任せたいと思います。
ザヌ(森實)やまつ氏(松永)、後からは但馬さんがバンドの来歴やリリースされるアルバム『(…Across the)Yellow Town, Pink St.』の制作時のエピソードなんかを存分に書いてくれると思います。
…と、もう一つ、簡単にバンドメンバーの紹介もこれまた最低限させていただきましょうか…
僕からみて、ザヌは高校のクラブの1年下の、まつ氏と但馬さんは2年下の後輩でした。
在学時から彼らはBathroom Sketchesでのパートと同じ各パートを各自のバンドで担当していました。
僕はというと、後述しますが、今のパートのギター、ヴォーカル、シンセサイザー、どれも全く担当していませんでした。
さて、メンバー紹介はこのくらいにさせていただきます。


このブログで僕は、あえて高校の頃と同じ姿勢で書いていこうと思います(バンド外での僕の書き物で、青野のいつもの文体およびテンションは散々見飽きたよ!という方もおられるかと思いますので苦笑)。
でも今思い返せば、後輩たちはもちろん、他県に及ぶバンドマンやリスナーの方たちと繋がることができました。そして今バンド外でソロ活動的に書き物をしているものにも確実に繋がっていると考えると少し面白くもあります。Bathroomsのオリジナルメンバーのリョージくん(山田)は、そんな僕の高校生の時の読者さんでして、その縁でBathroomsが結成されたと思うとちょっと感慨深くもあります。

なので、その高校の時と同じ姿勢で気ままに書いていこうと思います。とは言っても僕はあまりこのブログには書き込みません。基本的には他3人のメンバーに任せたいと思います。


緊張するかと思いましたが、それほどしませんね…奇しくもメンバーが全員、高校のクラブメイトで揃ったということで当時のことを思い出しつつ書いてみようと思います。


これは書き出すと長くなるので、かなり省略しつつ書こうと思うけれど、
中学の時分は、京都の田舎町(どれくらい田舎かと言うと、TSUTAYAまで車がないといけないので、CDを借りるという選択肢がなく買うしかなかった。かと言って、街にレコードショップなどある訳もなく、これまた自転車で30分以上かかる滋賀発の某チェーン店スーパーのささやかな、本当にささやかな隅っこのCDコーナーしかないほどの田舎)で、鬱々と色んな音楽雑誌を読みあさりながら、90'sUSオルタナ下北系のアーティストを中心に聴きながら、非常に鬱々と暮らしていました。それで、この街を出て、軽音部のある高校に行こうと思っていたのですね。バンドマンならギターから買うのが普通なんでしょうが、僕は、なぜか色々あって、ベースを買って1人家で弾いてました。これがまた虚しい。当時、音楽の話ができる友人など中学には1人いたかいないか…当然、田舎なもんで、スタジオがないどころか、楽器を持っているクラスメイトさえいないので、もちろんバンドなんて組めもせず、家で鬱々とヘッドフォンでベースを弾いていました(この中学というのもまたかなり変わってたんですよね、今から思うと)。

で、とりあえず、紆余曲折…これもまた書き出すと異常に長くなるので紆余曲折としつつ…あって、市内の高校合格しまして。これで軽音部のある高校に行ける!バンドが組める!と意気揚々としてた、と思う。今思い返すと。
京都に伏見桃山というところがあるんですけど、合格してから入学するまでの春休みは、そこのTSUTAYAさんに日々通ってた。


今思い返せば、この時がリスナーとしての意欲はピークだったと思う。一日に邦楽・洋楽問わず何十枚、時には百枚単位で試聴しまくって(あまり来店者が少なかったのでできたけど…)毎日気に入ったものを数枚借りると言うのを繰り返してました。

この時は軽音部のある高校に入学するのだから、生半可なバックグラウンドではいけない!少しでも多くの音楽を吸収せねば!という気持ち…。この時に出会ったアーティストやアルバムからは、今でもかなり影響を受けているとも思います。


で、高校に入学して、叩くは、もちろん軽音部の扉。唖然。

同級生で見学に来てる人は2,3人、先輩も10人弱、在籍バンド数2バンド、ついこの前に個室のスタジオ部屋を借りられたところ、新設校にも関わらず活気のない雰囲気、部員間の交流もほとんどない、そして今では恩師となっている顧問から通達される「ある程度の部員数が来なければ廃部だなぁ」、見学に来てた子の「こんなクソ真面目学校で、音楽やれたら得くらいなー」という言葉。。

茫然自失になりながら、そこからは『けいおん!』の田井中律ちゃんのごとく、クラスメイトで、入学頃の自己紹介をした時に「音楽が好き」と語っていた人(ここで友達、と当時は言えなかったのが問題です。自分は青野なので大体名簿1番になるのは慣れているのですが、その時の席は四方を女子の方々に囲まれて男子の友達を作れませんでした。。人見知りだったので6,7月頃まで同性の友達ができず…なので、休み時間にはヘッドフォンで音楽を聴いていた気がします)を勧誘し、どうにかVo以外のメンバーが揃いました。後にVoも正式に加入してくれたんですが…
それが先に書いたバンドですが、3年間演っていました。
その時のドラムが今はシンガロンパレードでジョンとして活動しているBathroomsのオリジナルメンバーの高橋くんでした。

しかし相変わらず廃部寸前なのはかわらなかったので、1年の頃から部長にならせてもらって、積極的に下級生の部員と関わっていたと思います(そもそも軽音部ってどうしてもバンド単位の行動になってしまって、上下の関わりがなくなってしまいがちなんですよね。それが過疎の原因と思っていたので、下級生と関わって居心地の良い場所にしよう、と)。今思い返せば、この時が現時点で自分の人生でピークに青春的にキラキラしてた時期だったように思います…この後、また鬱々に戻りますが。。
先輩方にも関わっていこうと思ってたのですが、いかんせん僕、進学校でパーマをあてて茶髪(たまに金髪)に染めていたり眉毛なし、シャツ出し、ダボダボのパンツという軽薄なルックスだったのもあり(これ中学からの悪しき価値観というか、間違ったスタイルだと思います…)、上級生の方の心象が悪いのではないかと神経質に思ったり、実際歳上の方と関わるのがとても苦手だったので、頑張って関わっていこうと思ったんですが、いかんせん音楽的共通項を見つけることも難しく、なかなかだったのですが、そこで出会ったのが2つ上の先輩が佐藤直哉さんで、彼は今でも非常に仲良くしていますね。。在学中から、彼のユニットのサポートを何度となくしたり、直近では彼のアルバムにシンセサイザーで参加したり、今回のアルバムにもアドバイザーとして協力して下さいました…
で、そうこうしている内に卒業する頃には100人を超えるか超えないかの部活になって良かったと今でも思えるんですけど(本当3年間ライヴも何もかも好き勝手やってましたしね)。。


そうしている内に出会ったのが今のBathroomsのメンバーになっている3人ですね。

最初にザヌと出会いました。1つ下なので。
僕、下級生だったり年下だったりは、とても好きなので(関わっていきやすい)すが、ザヌだけは数少ない例外で、最初の頃、彼の心象は最悪でした。

僕は当時、肩にかかるかかからないかくらいのロン毛だったのですが、同じロン毛でかぶった時点で心象が悪いのですが、イケメンで軽音部に入っているのにアコギしか持たず、エレキは持っていない。スカしたやつだ、「いけすかない」と思ってたのですが、不思議なことに時が経てばそんな思いも氷解して、気がつけば、僕達のバンドのライヴを観にきてくれた今はex-chou chou marged syrups.の宇野くん(他校)と一緒に3人でバンドを組んでましたね…。。むしろ僕が彼を誘う形で。

その時、僕はB&Voだったので、Velvet Crushみたいなオルタナ感のあるパワーポップなバンドをしようと思っていたのですが、残念ながらVelvet CrushやらLemonheadsやら聴いている人が周りにいなかったので、Burger Nudsのようなギターロックっぽい曲になりましたね(B&Voなのに…)。

で、そんなバンドもありつつ、彼は彼自身色々あって一時期誰とも連絡を断ってた(のかな…??当時のガールフレンドとか限られた人には連絡とっていたのかも)のですが、同じ大学に来て、その食堂で久しぶりに話しながらまた仲良くなって、紆余曲折あってバンドに入りました。


次に会ったのはまつ氏と但馬さん。

まつ氏は…2つ下の後輩とは僕当時からよく関わっていたのですが…最初それほど深い関わりがなかったのですが、何かつっこんでいた気がします。と言うのも、彼は一見すると堅物で、クソ真面目なルックスだったので(今は普通のルックスですが昔は苦学生みたいなルックスだった)、どう関わって良いか悩んでいたんですね。ただ彼がドラムセットの前に坐った時には、すごかったです。苦学生ルックスからリズムキープ無視で猛烈にハシりまくり、バシバシに叩きまくる喧しいスタイル。この人、面白いな、と思いました。
もうとにかくルックスに反してドラムがうるさいというか、ハシってもすごい存在感あるんですよね(パッと見、ムキムキなルックスという訳でもなかった、どころか、むしろ細かったのに)。それでスタイルがアツいね、と仲良くなった記憶が…。
で、彼もまた同じ大学に進学して、紆余曲折あって、今のメンバーでは、僕の次に昔からいるメンバーですが、良い意味でやかましいドラムはそのままにタイトに響かせてくれています(アルバムでも犬飼さんのライナーに書かれていたように、「騒々しくもタイトなドラム」になりましたね)。
あと、まつ氏と言うあだ名は、当時の彼の苦学生スタイルをリスペクトして、付けられた名前だったと思う。


で、但馬さん。
但馬さんは、当時の僕の高校では珍しい、ガールズバンドでベースを弾いていた。まつ氏よりも最初期はよく喋ったイメージが。で、但馬さんの当時のイメージはスマパンのD'arcy。と言うのも、彼女、ライヴの時にはどんな時にでも常に同じ角度でドラムを見つめながら(客席はほとんどみてない…ように見えた)、ゴリゴリのベースを弾いているんですよね。
但馬さんが在籍していたバンドも、良い意味で高校のガールズバンド的ではあまりない、割とクールなバンドだったので、その中で一心にベース弾いているスタイルがカッコ良いなと思っていました。これまた紆余曲折あってBathroomsのベースで入って下さって、今回のアルバムでは「水槽」「Affairs」などの楽曲では彼女のコーラスワークを聴くことができます。
ちなみに当時、但馬さんはヴォーカルもコーラスもしていなかったと思うので、意外に彼女のコーラスワークが聴けるのは珍しいのでは!?と思います。今思い返してみれば。

 

と言った感じかな。。

途中から自分語りと中途半端なメンバー紹介になってしまった。。苦笑

オリジナルメンバーは現在、僕1人なので、詳細なメンバー紹介やバンドの来歴なんかは、また別の機会に書こうと思います。。。

でも、まあバンド外のソロ活動やらで青野の文は読み慣れてるし、もうええて!と思われている方もおられるでしょうし、これくらいのゆるーりとしたテンションやと良いかな、と。。苦笑


ひとまず、今回の記事はこれくらいで…
拾い残した物事があれば、と言うかあると思うのだけれど…それはメンバーに補完してもらいつつ、僕も鬱陶しくない範囲で書いていこうと思います(書き出すと長文になり過ぎるのがいかんところ)。。

 

 

PS:改めてリリースされる『(…Across the)Yellow Town, Pink St.』収録曲の「水槽」を聴いてみたら物凄いファズギターがギャンギャンですな…よろしければ是非どうぞ。。

『Here』

(※これは(勝手に)ART-SCHOOLSPITZGRAPEVINEの楽曲を全曲解説していく途上で遺跡となってしまっていたBlog「Self Service」の移植記事です。移植日:18/6/23 オリジナルのポスト日は投稿日時参照)

 

『Lifetime』で『退屈の花』園から抜け出て、日常それそのものを見据えたGRAPEVINEは、セールス的な後押しもあって、より地に足をつけて初期の彼らの確固たるスタイルを確立しようとした。

そんな中でリリースされたこの3rdアルバムは、タイトルが示すように『Lifetime』や「Lifework」的な日常それそものから、さらに目を凝らした当時の彼らにとっての(有り体に言ったところの)「今ここ」に目を向けたもの。

早くもここでは初期のVINEの一つの完成系とも言えそうな感覚がみられる。
『覚醒』や『退屈の花』で見られた、気怠い倦怠と溺れきることも捨て去ることもできないまま絡まる関係を通り越して、時代への澄んだ瞳はそのまま、今ここを認めていくといったように、本当に大人になっていくための通過儀礼のような作風で、改めて聴き返しても彼らのキャリアの中で最も「安定して優しい」アルバムになっている。

こう書いてみるとVINE独特のシニカルなスタイルや毒づく田中の目線が薄れたのではないかと思ってしまいそうだが、その心配も全くなく、相変わらず秀逸な審査眼で達観しているような目線はあるし、むしろ情欲の濃さや強度はより濃くなっている。しかしそれらを、あたかも達観してすまし顔で歌ってしまいそうなデビュー当初のひっくり返った諦観のために使うことでなく、「ここ」を祝福するためにエッセンスを抽出しているかのようだ。

それらを踏まえて、改めて収録曲を眺めてみれば、彼らにしてはそれまで見られることのなかったエクスキューズなしの応援を込めたラブソング「想うということ」があるかと思えば、その真裏とも言えるようなまでにセクシャルな名曲「リトル・ガール・トリートメント」があったり、一聴すると日々の憂愁を優しく包み込むようでいて歌詞を見ると隠語に満ちたアンビバレントな「ダイヤグラム」、後にも繋がる田中氏の露骨な毒づきが見られる「Scare」、ルーツ・ロックやブルース、ファンクなどに影響を受けてきた彼らの憧れをそのままファニーに歌った「南行き」、そして今まで立ってきた「ここ」をゆっくりとでもしっかり肯定して受け止めていくような「here」と一曲ごとの密度は非常に濃い曲が並んでいるにも関わらず、アルバム全体を通して、不思議なまとまりがある。
古い考え方かも知れないが、もし一つの作品を陰と陽の二分法で分けるならば、「陰のまとまり」が秀逸なのが後の『イデアの水槽』だとすると、「陽のまとまり」が秀逸なのがこの『Here』だろう。


このまとまりの良さには『Lifework』の成功を受けて上昇気流に乗って、なあなあに曲作りをしていたバンドに対して田中氏と西原氏が「待った」をかけて、バンドが結成してから初めてちゃんとメンバーで話し合ってアルバムコンセプトを決めたという事実がある。
当時の田中はROJ誌で2万字インタビューを受けているが、その際、コンセプトの一つとして「前向きな気分なんですけど…『前向きにやるしかないからそうやってる』みたいなことですよ。素直に『前向きだぜ!』っていうんじゃない。『俺のこの気持ち悪いのは一体なんだ!』っていう感じですよね(笑)。『どうせ誰も教えてくれへんやろうし、これも俺が答え出さなあかんねん!』っていう、そういう新しい方向」に向かおうとしたと語っている。
陽とは言えど、田中の「何にでも責任をとらなければならない」という思いありきで、それでも諸々を受け入れた上でのアルバムになっているので、妙な説得力とまとまりがあるかも知れない。
実際に聴いてみると現実に直面しているがゆえのフラストレーションがむしろ今までにないくらい爆発している曲も多い。

もう一つのコンセプトは『覚醒』の項でも書いたような「アルバムに必ず精液と愛液の匂いを介在させること」。その言葉の通り、この作品の形容としての「新たにクールなGRAPEVINE」と言う言葉はエロティックな響きを持っているし、実際に今までよりも艶かしい曲が多い。


ジャケットはどこか異国のストリートのようなところで撮影された無骨なもので、歌詞カードに記載された歌詞は意図的に改行を一切使わず、文節ごとに「/」記号を使って区切るのみで、一曲通して言葉を羅列するという実験的なスタイル(ちなみにスピッツの頃から、当ブログで使っていた歌詞を引用する時のスタイルは、実はこの『Here』の歌詞カードのスタイルのオマージュです)。正直に言って歌詞が読み辛いが、当時の田中は「自分の歌詞から何か感じてメッセージとして受け取ってほしくない。メッセージになったら責任がとれない」と語っていたので意図して見辛くしているのかも知れない。


何はともあれ、このアルバムで初期VINEは幸福に「ここ」を受け止めることになる…が、次作『Circulator』からは一転。これまでの方法論から一旦距離を置いて新たなスタイルを模索していくことになる。それは長らく共闘してきたメンバーの不在も大きく影響しているかも知れない。


00年3月リリース。

 

Here

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『Lifetime』

(※これは(勝手に)ART-SCHOOLSPITZGRAPEVINEの楽曲を全曲解説していく途上で遺跡となってしまっていたBlog「Self Service」の移植記事です。移植日:18/6/23 オリジナルのポスト日は投稿日時参照)


名実ともにVINEの黄金期でありセールス的にも最もヒットしたのが、この2ndアルバム。

前作で倦怠と絡まる関係の辟易を開花させた『退屈の花』の地平から、彼らが進んだ先で歌うのは、『Lifetime』というタイトルが示す(直訳すると「生涯」。このタイトルは田中氏による発案で決定した)通り、「日常」それそのもの。

『退屈の花』では、気怠く終わる事のない縺れる関係と情欲さえ諦観のように捉えたような、空虚なシニシズムも持っていた彼らだが、今作では前作のそれをシニカルにではなく、むしろ感情を込めて、コミットしている。
とは言え、もちろん、いつもの彼らのように、どこかでセクシャルな響きや名前を付けてしまえばたちまち壊れてしまう関係や感情などを鋭く指摘しつつ、憂愁なブルースで包み込む描く作風自体は変わっていない。

つまり、彼らの最もヒットした作品である本作は、スピッツにおける『ハチミツ』のように当初からある彼ら自体の在り方を変えることなく、より濃厚にした結果と言える。
しかし、繰り返しになるが『退屈の花』と大きく異なるのは、田中氏の歌詞がシニシズムをより排した、日常そのものに退屈や諦観を乗り越えて感情をもってコミットしていることだ。例えば、ここでは『退屈の花』では半ば幻想的に思い返したりした昔の恋人や諦め半分で抱えていた"君"との関係がより現実味をもった上で、「向き合って」描かれている。さらに「光について」のように初めて、自分たちバンドの関係性を歌ったような曲もある。『退屈の花』からリアリズムをもって歌ってきた彼らだが、今作では、地に足が着いて、ただ淡々と過ぎ行く『Lifetime』を切り取ることに成功している。
なお、各音楽誌で後に語ったところを統合すると、恐らく田中はこのアルバムのリリースと前後して結婚している(と推測できる)。ここでは、そういったプライベートに触れることは楽曲解説とは離れるので極力避けたいが、「Lifework」というGRAPEVINE流のマリッジ・ソングとも言える曲や『Lifetime』と題されたタイトルは、これに由来することも大きいだろうため言及した。既に彼らは『退屈の花』畑を抜け出し『Lifetime』に直面しているのだ。


サウンド面でも、アルバム全体としての(田中氏いうところの)ルーツ・ロックのエッセンスもそのまま、さらにダイナミックに哀愁の色で包み込んでおり、彼らの入門盤としても最適であると言えるくらい、各メンバーのそれぞれの楽曲の良さが存分に伝わってくる。

ジャケットは、高度経済成長期に建てられた欧米かぶれのホテルのような映画館のような建物の入り口で、カーテンがかかっており、既に閉館していることを示しているようだ(足下のところに置かれた大きなエフェクターケースのようなケースはショーケースの看板のように電飾になっており、「☆LIFETIME&LIVING?→1/4 GRAPEVINE」と光っている)。
この表ジャケットを見続けていると、そんな閉館した建物に恋人と潜り込んで、ひっそりと、ある一人の人間の生涯を映した映画を観に行っているような感覚に陥る。

そのタイトルはもちろん、『Lifetime』である。

99年5月リリース。

Lifetime

Lifetime

 

 

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『退屈の花』

(※これは(勝手に)ART-SCHOOLSPITZGRAPEVINEの楽曲を全曲解説していく途上で遺跡となってしまっていたBlog「Self Service」の移植記事です。移植日:18/6/23 オリジナルのポスト日は投稿日時参照)

 

前作にあたるデビュー・ミニアルバム『覚醒』では、新人とは思えないほどの諦観とやるせない時間、そして浮き世に対する秀逸な審査眼を垣間みせたGRAPEVINE。このデビュー・アルバムでは、早くもその大人びた諦観と同時に無邪気さゆえの残酷さに、2人でどこにも飛び立てずに踞る時間や1人でただ相手を思いつつもそんな自分を自分で冷静に眺めているような冴えた時間が歌われている。

何と言ったってタイトルからもう秀逸だ。『退屈の花』。
これは、デビュー初期の彼らのスタンスを表していると同時に、彼らの持つ色気を端的に示している。

前作同様、ブルース、カントリー、ファンクといった米国南部の音楽に影響を受けたサウンドも、また玄人くさく花開いている。
またジャケットも彼らには珍しくヨーロッパ風の庭園を歩くメンバーと流れるような文字が花々の萌芽を思わせる。


その上で、このアルバムの素晴らしいところは、現時点で彼らのキャリアの中でも、アルバム中、ほぼ全編(広義の)セックスソングで展開されていることである。
しかし、セックスソングと言えど、彼らのそれは、例えば、スピッツが歌うような無邪気なグロテスクとそれを彩るキッチュな世界でも、ART-SCHOOLが歌うような厭世をも匂わせるような不器用でエロティシズムが増幅されるような世界でも、ない。彼ら、と言うよりも田中氏の歌うセックスソングは、「日常にある性」を歌っている。
一見すると、それは、普通のことかも知れない。
しかし、多くの日常のセックスがそうであるように、彼らはその内に潜む倦怠や怠惰、堕落といったものを、ロマンチックな言葉ではなく、ただ淡々と歌うのだ。ドラマティックな感覚やキュッとなるようなセンスで、歌われるセックスソングも多い中、彼らはどこにも到達しない2人の関係をデビュー早くも歌っているのが恐ろしいようでもある。
もちろん「君を待つ間」や「遠くの君へ」のような純粋なラブソングもあるので、全てが広義のセックスソングとは言えない(まあ「君を待つ間」は、性愛関係を超えた上でのラブソングとも言えるが)。


また、前作でもデビュー早々にして「浮気の曲」と明言化された「恋は泡」が収録されたが、このアルバムで歌われている多くの「2人の関係」も実は、正式な恋人同士とは言えない関係が多く描かれていることもまた、特筆すべきだろう。恋人がいるのにどこかで誰かについ惹かれているような関係や言葉にすればたちまち崩れてしまうような2人の関係、惹くでも惹かれるでも駆け引きとさえ言えないような関係、様々な関係が描写されるが、実はそれは「少女漫画のようにはいかない」リアリティをもった冴えない関係そのものでもある。

少女漫画、と書いたが、往年の少女漫画では(少なくとも自分が少女漫画を読み始めた00年代半ばのそれでは)よく恋に落ちる瞬間などに花びらが舞い散ったりするようなキュートな演出がなされることが多い。そこで面白いのは、「歪つな」あるいは「奇妙な」もしくは「(遠目に)セクシャルな」2人の関係を描いている、このアルバムもまた花びらが舞っていることだ。

しかし、それは少女漫画に描かれるような、恋の喜びの花ではない、ここに咲いているのは『退屈の花』である。

2人で溺れきることもできず、どんな身に絡まっても明日思う相手もわからず、また自分自身の気持ちさえも判然としないまま、関係は複雑になる。にも、関わらず複雑化した関係の無変化な日常は終わることなく続いていく。そして、その全てがセクシャルでありながら、その全てにどこかで飽き飽きして倦怠を抱いている諦観。それこそが、このアルバムで可憐に汚く凛と咲く『退屈の花』なのだ。

このアルバムについて、田中は『Here』をリリースした頃のインタビューで当時を振り返って、「(『Here』をリリースした)今でも、曲には精液や愛液の匂いは絶対に必要で。それって生きていることをそのまま歌えているってことじゃないですか。『退屈の花』はちょっと作り込みすぎたけど、その生の感覚を一番出せていると思う」といった発言をしている。

たしかに、このアルバムにはどこかで体液の匂いがある。しかし、それを暴力的に落とし込む、その前に自分自身と関係に辟易し退屈している。それが主題になっているからこそグロテスクで聴きづらいアルバムにはなっていない。むしろ、「複雑に絡まる関係」を淡々と映しているからこそ、虚飾のないありのままの日常がポップに展開されるのだ。

デビュー早々、『退屈の花』を作り出してしまった彼らは次にどの地平を進むのだろうか。

98年5月リリース。ボーナストラックあり。 

退屈の花

退屈の花

 
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『覚醒』

(※これは(勝手に)ART-SCHOOLSPITZGRAPEVINEの楽曲を全曲解説していく途上で遺跡となってしまっていたBlog「Self Service」の移植記事です。移植日:18/6/23 オリジナルのポスト日は投稿日時参照)

 

新人とは思えないくらいの練り上げられた楽曲と文学的な歌詞、という触れ込みでデビューしたGRAPEVINEの全国デビューミニアルバム。

メジャーからのリリースでありながら(当時主流であった8/12cm)シングルでもフルアルバムでもなく、ミニアルバムでデビューしたのはシニカルな彼らならではのスタイルだ。

ART-SCHOOLスピッツがそうであるように、彼らもまたデビュー当初から後に前面に発揮される個性的なスタイルをこの時点で既に確立しているように思える。その面で、田中氏は後のインタビューにおいては、「最初の3枚のアルバムまでの俺は死んだことにしてくれ」といった旨の発言をしていた時期もあったが、そういう訳にもいくまい。
ここには、デビュー初期の彼らの魅力が早くも噴出しているからだ。


通常のバンドとは異なり、メンバー全員が卓越した作曲センスを持つ事でも知られる彼ら。このデビュー・ミニアルバム全体としても、オリジナルメンバー全員分の曲が早速収録されていることは特筆すべきだろう。
これまた既に、それからの彼らのスタイルで確立される、渋くファンキーな曲はギターのアニキこと西川氏が、それをさらに青いメロディにしながらもシニカルな曲はリーダーこと西原氏が、アメリカ南部のブルーズ的な憂いのある冴え切った曲はフロントマンの田中氏が、そして彼らとは全く違ったベクトルで並のギターロックバンドでも決して真似することができないほどポップなギターロック曲をドラマーの亀井氏がしたためている。

当時の第二次テクノブームを通過したダンサンブルなサウンドやヴィジュアル系が流行っていた邦楽シーンからすれば、彼らのブルーズに満ちた楽曲のポップセンスは、デビュー当初から大人びて聴こえただろう(ある意味では、オッサン臭いとも言えるだろうが)。
なお、同時期のデビューにはいわゆる「'97の世代」…NUMBER GIRLSUPERCARくるり中村一義くんと言った邦楽ロックのオルタナティヴな可能性を引き出したバンドがいる。
その中でもVINEは「'97の世代」としてでなく、これまた同時期にデビューしたTRICERATOPSと比較されることが多いことから、彼らの卓越した演奏技術や大人びた風格が評価されたことがうかがえる。


さて、歌詞の方は現在に至るまでと同様、田中氏が書いている。
これまた、新人とは思えないほど(彼は、邦楽シーンとしてはそこそこ珍しい、メンバーで最年少のフロントマンである)大人びており、屈折しつつも世俗への鋭い審査眼と溢れ出る情欲を切ない言葉で切り取っていくという彼のスタイルの一つが早くも顔を覗かせている。
彼の作詞スタイルの多様性とその神髄は後に発揮されるものであるが、これもまたこの時点で既に根本のクオリティの高さと哀愁に満ちた個性が見え隠れしていて頼もしい。
この作風は次作『退屈の花』で早くもある種の開花を見せることとなる。

 

ジャケットはファースト・サマー・オブ・ラブ期のようなクラシックなサイケデリック風のイラスト。内ジャケは、ART-SCHOOLスピッツも使ってきた写真を伸ばしつつ転写した作風のもの。クレジットのところが反転しつつ、この転写技法(?)が使われており、ビジュアル的にも往年のサイケデリアを思い出させるようだ。

『覚醒』というタイトルに反してか、反しないでか、アップテンポで大胆な曲はなく、大人びたセンスが見られる。既にこの時点から彼らのエッセンスは"覚醒"しているのだ。

今でも時に折りてライブでプレイされるのは、タイトルトラックの「覚醒」くらいだが、自分が高校生だった頃の10周年記念の野外音楽堂での公演では、このアルバムの再現を演ってみせたという(自分は残念ながら観に行けなかった。悔やまれる)。

1997年9月リリース(デビュー10周年記念復刻版として、B面集『OUTCAST』にも収録されたRolling Stonesから引用されたタイトルも渋い「TIME IS ON YOUR BACK」の初期デモ音源と次作『退屈の花』に収録された「君を待つ間」の初期音源が収録された2枚組として、再リリースされている。そちらはちょうど10年後の2007年9月リリース)。

覚醒

覚醒

 

 

 

覚醒~10th Anniversary Special Package~

覚醒~10th Anniversary Special Package~

 

 

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『おるたな』

(※これは(勝手に)ART-SCHOOLSPITZGRAPEVINEの楽曲を全曲解説していく途上で遺跡となってしまっていたBlog「Self Service」の移植記事です。移植日:18/6/23 オリジナルのポスト日は投稿日時参照)

 

『花鳥風月』、『色色衣』に続くB面集第3弾。
初回限定版には前2B面作と同様、ディレクターズノートが付いた紙ジャケになっている(前2作のそれとは違って今回は、竹内修氏一人によるもの)。


まさにポップ&オルタナティヴを地でいくスピッツのタイトル通り『おるたな』な一面(これは『花鳥風月』や『色色衣』でも同じ)で、言うまでもなく『とげまる』のタイトルを踏襲している。

B面集とは言え、前2作とは趣きが異なり、アマチュア時代やインディー時代の曲は収録されておらず、こちらは収録曲のおよそ半分がカヴァー曲になっている。
ディレクターズノートにも書いてあるが、スピッツは元々イベントなどでカヴァー曲を披露することは他のアーティストに比べると多い方であることは、スピッツ=ライヴバンドであると認識しているファンには周知の事実であったが、ライトなファンにはあまり知られていない事実だろう。ノートにあるようにチャットモンチーのカヴァー(「シャングリラ」)や(これはノートには書いてないが)Aerosmithのようなハードロックのカヴァーを披露することも多いスピッツだが、今作は「スピッツ」としてカヴァーしてきた公式音源を全て網羅している(「スピッツ」として、としたのは草野マサムネの個人名義では「木綿のハンカチーフ」もカヴァーしているからだ)。
(まあ逆に言えば、スピッツをB面、カヴァーともにコンプリートしてきたファン…自分のことです苦笑…にとっては新録曲が少ないようにも感じますが…苦笑)


そういった意味でスピッツ×Somebodyといった化学変化を楽しむことができ、オルタナでもあるが、やはりB面曲。
特に、『花鳥風月』や『色色衣』より圧倒的に曲順の流れが良く、雑多なカップリング曲が全体を通して一つのドラマのようにも聴こえる。サウンド的には『フェイクファー』のように、全体がバラバラな曲調にも関わらず全編通して聴いた時に感じられる妙な統一感こそが、このアルバムでスピッツが見せるオルタナティヴな部分だろう。
牧歌的な「リコリス」「テクテク」、エッジのたった「ラクガキ王国」「まもるさん」、カヴァー曲として非常に秀逸な「タイム・トラベル」「初恋に捧ぐ」、そしてこのアルバムで最も過虐性すら感じられる「さよなら大好きな人」~「オケラ」の流れに至るまで曲調は共通項はほぼ無いにも関わらず、1枚のアルバムに入る必然性のようなものすら感じる。

また多くの曲のキーボーディストにクージーだけでなく、メレンゲのバックでも活躍している皆川真人氏を起用していることも注目したい。初恋の嵐の復帰ライヴでも度々共演しているメレンゲであるが、そのテイストをスピッツにも持ってきた(そもそもメレンゲスピッツを陰陽に分けた時、陽の部分を特に際立たせたバンドであるという持論をよく展開している。ちなみに陰の部分を際立たせたバンドはART-SCHOOLだと思います)ことが、とびきりに切なく、しかし見えない傷跡としてたしかに残るというようなメレンゲのセンチメンタルを思わせるようだ。

全編を通した時に感じられる究極的なポップでありながらオルタナティヴな感覚は、やはり高い点に至っている。

そう、スピッツオルタナティヴ・ロックバンドなのだ。

2012年2月リリース。

おるたな

おるたな

 
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『とげまる』

(※これは(勝手に)ART-SCHOOLSPITZGRAPEVINEの楽曲を全曲解説していく途上で遺跡となってしまっていたBlog「Self Service」の移植記事です。移植日:18/6/23 オリジナルのポスト日は投稿日時参照)

 


(『ハヤブサ』から少し飛んでの作品扱いになりますが)現代スピッツの集大成的な名作。

『三日月ロック』以降のハイファイで躍動的なサウンドメイキング、『スーベニア』以降の現代的な邦楽ロックのフォーマットに沿いつつひねくれた曲構成に、中期、特に『インディゴ地平線』~『フェイクファー』で見られた、澄んだ想いゆえの残酷で、純粋な世界観が乗せられている。

まずサウンド面では、『スーベニア』以降(兆候としては『三日月ロック』の時点で既)に見られた、どこか「若作りしている」とも揶揄されがちだった、アップビートな曲調をスピッツお得意の驚異的なポップセンスでコーティングすることにより、立体的で説得力のあるものになっている。一曲ずつ見ると、BUMP OF CHICKENSTRAIGHTENER100sエレファントカシマシのようなテイストの曲も多いが、もちろん、それらの最新のシーンに追随するような形では無く、自らのメロディをもってうまく食い入っている野心さも見られて面白い。


しかし、それだけなら、この『とげまる』は名作にはなり得ないだろう。
なぜなら、このアルバムは、ここのところ、なりを潜めていた、彼らのフェイク性、嘘、そして、猛毒が隠されているだけでなく、それらが、純粋ゆえの毒であることが、いとも平然と歌われているからだ。
「ビギナー」と言う無垢な世界から始まり、「初恋クレイジー」の更に次の世界を思わせる「恋する凡人」へと繋がっていく最初の流れから見ると、力強い優秀なポップバンドであるが、「TRABANT」以降から、だんだんと「とげ」が露骨に見え始め、「えにし」でどんどん歪み、遂には「どんどどん」、「君は太陽」のラスト2曲では完全な背徳を体現している。

このアルバムは、<<ビギナーのまま/動き続けるよ>>という無垢な祈りから始まり、<<理想の世界じゃないけど/大丈夫そうなんで>>という歪んだフェイクに着地することに、最大の意味があるだろう。
そう言う意味では、ビギナーのまま、曲がっていく一人の人間を主人公にしたコンセプトアルバムのようにも見えてしまう。

マサムネ氏はMUSICA誌において、この「とげ」を堂々と出しながらも「まる」も臆せずに出すスタイルは「昔からアングラ/サブカルに憧憬を抱いてる部分の俺をちょっと騙しつつやってた面もあってたけど、もう今回はサブカルに憧れる俺も納得するような感じになった」と豪語している。

純粋であるが故に、それから逃れられず、純粋なまま崩れて、溺れていく。
それは、中期スピッツが描いていた世界観でありながら、今、この時代で、このサウンドで鳴らされることに奇妙な説得力を持っている。
まさに、「とげ」と「まる」が共存する世界。
「まる」が無ければ、「とげ」はなく、「とげ」のない「まる」もまた、「まる」でない。


内ジャケは『三日月ロック』同様に、ザラッとした手触りのもので、それも、昔からの世界を継承していることを思わせる。

2010年10月リリース。

とげまる

とげまる

 

 

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『ハヤブサ』

(※これは(勝手に)ART-SCHOOLSPITZGRAPEVINEの楽曲を全曲解説していく途上で遺跡となってしまっていたBlog「Self Service」の移植記事です。移植日:18/6/23 オリジナルのポスト日は投稿日時参照)

 


切り刻まれるくらい残酷なまでのセンチメンタル、世界に歪まされていく僕とそれを救ってくれる君、一瞬の嘘とそれへの耽溺…中期スピッツは、名盤『ハチミツ』~『フェイクファー』にかけて徹底して、それらの瑞々しい感性を研ぎすまし、自分たちの方法論を確立すると同時にセールス的な成功を獲得することにも成功した。

その上で、この『ハヤブサ』からは、それを超えて近代スピッツの幕開けである。
…はずなのだが、そのサウンドも歌詞も中期で凝縮してきたエッセンスとは明らかに毛色が違うものが提示されたのも、また本作だった。

前作『フェイクファー』から約2年後にあたる『ハヤブサ』のリリースまでにスピッツの周辺は多くの環境が変化した(この期間、全くの空白ではなくミニアルバムでもシングルでもない、と銘打ってリリースした「99ep」、B面集第1弾『花鳥風月』、そしてバンド初のベストアルバム?『RECYCLE』がリリースされていた)。
それはグッドなものからバッドなものまでとても幅が広く、その変化の中でスピッツというバンドは、一度死んで蘇生した、とも言える(事実、単行本『旅の途中』でもイントロダクションで、そのように語られている)。

 

彼らが迎えた非常に多くの変化の中で特に大きかったのは以下の3点だ(ここでは楽曲解説と離れすぎないように絞ったが、その期間の詳細は単行本『旅の途中』や別冊宝島誌36に詳しい)。

1.現在でもスピッツの5人めのメンバーとも言えるキーボーディストのクージーとの出会い
→その成果が早速「99ep」としてリリースされた(収録曲3曲は、後にB面曲集代2弾『色色衣』に収録されたので、解説もその際に)。これを期にマサムネ氏は「売れるか売れないか」といった彼が初期からとらわれてしまっていたセールス的にどうか、という視点から逃れたセッションが多く行われることになった(その多くは後にシングルのB面に配される曲になった=現在では『色色衣』から聴くことができる)。とは言え、マサムネ氏はこれらの曲を「どこか中途半端だった」とも語ってもいる。


2.レコーディング環境と作品の感触への違和感と試行錯誤
→『インディゴ地平線』よりCDとしての自分たちの作品が、あまりにローファイすぎてハリがないと考えていた4人は自分たちの望む出音としてのサウンドに近づける(マサムネ氏曰く、「耳に飛び込むような音」「スタジオで鳴ってるそのままの感じ」、田村氏曰く「『惑星のかけら』みたいなグランジな音と切ないリヴァーヴ感」「ラウドなロック感をそのままに」、崎ちゃん曰く、「細くない大音量のドラム」が欲しかったと『旅の途中』で書いている。それらを踏まえテツヤ氏は同書にて「スピッツの4人は元々ギター主体のバンドが好きな4人が集まったから特に(ギターの)"歪み"へのこだわりが強かった」としている。どの意見も、彼らの頭で鳴ってほしい音と実際の作品の音が乖離してしまっていたことへの懸念だ。全員に共通するのは、とかく「迫力の無さ」への不満だった)ために、レコーディング環境を変えようと、楽曲単位でもエンジニアを変えレコーディングスタジオ自体も変え、初めての海外(米国、LAやマイアミにて)でのレコーディングやミキシングも経験した。
柔軟に環境を変えたことで、場数も踏み、作品は(一進一退の一面もあったものの)完成するたびに彼らの望むサウンドに確実に近くなってきた。


3.メンバーたち当人の意思に反した名目上のベスト盤のリリース
→1stアルバム『スピッツ』から、彼らは自分たちの作品リリースについてかなりポリシーを持ってきていた。その一つはジャケットにメンバーを映さない、だった(『Crispy!』除く。とは言ってもあれも、まずマサムネ氏だと初見では分かり辛いが)。そのポリシーの中でも大きかったことの一つは、『花鳥風月』の項にも書いた「ベストアルバムのリリースは解散の時」だった。
が、メンバーたちが2のように、レコーディングに頭を抱えながらも没頭している時にレコード会社からベスト盤のリリースをメンバー自身にも一方的に「決定事項として告知された」。
彼らが「自分たちのベストアルバムのリリースのアナウンスを自分たち自身が聞かされた」時に直感的に思った、それぞれの感情は『旅の途中』から抜粋すると、


田村氏:正直カチンときた(中略)ベスト盤ブームに対するアンチテーゼで『花鳥風月』を出したのに、俺たちがテーゼの方になってどうする!
テツヤ氏:(ベストアルバムは解散の時という)発言したことと違うことををするのは格好悪い。
崎ちゃん:そんなことがあるのか。メンバーの意思と違うところでそう言う話が動くのか。
マサムネ氏:正直、拍子抜けした。スピッツをとりまく音楽ビジネスの状況を見ていれば「そういうこともあるかも」とは思っていたから。(中略)「ベスト盤を出すのは解散するとき」と言ってたから、格好悪いなあと思った。


こう列挙すると田村氏が特に怒りを露にしていたように見えるが(マサムネ氏の言では実際にメンバーの中で最も怒っていた、とのこと)、『花鳥風月』に際して自分たちがした、シーンに対しての宣戦布告的なアナウンスが嘘になってしまうという思いは、4人で共通していた。
ファンにベストの発売がスピッツの意思とは無関係であると伝えることを前提として、「最低限の責任」としてタイトル、選曲、ジャケットデザイン、マスタリングに立ち会うこととなった。
リリースされたベスト盤、タイトルは『RECYCLE』(使い回し)、選曲はセルアウトされた自分たちで認める「世間での認知度が高い曲だけ」を選ぶという適当なもの、ジャケットは太極図が描かれた(彼らお得意の「意味のないようにも意味を見いだせそうにも見せる」という意匠さえも排した)本当に質素なプリントの上に「SPITZ RECYCLE Greatest Hits of ZTIPS」と自らを鏡文字にすることで「背信」の意を明確に見せるなど、自虐と言うよりも、自嘲的とまでに映る、半ば痛々しいリリースとなった。
リリース後も、公式サイトでも当初の予定通りファンにアルバムのリリースは不本意であるとアナウンス、FC会報やラジオでは「(自分たちの意向が無視されたアルバムなので)買わなくていい」とまで宣うという徹底ぶり。
このリリースそのもので不信感を抱いたファンもいれば、痛々しいまでの露骨なアルバム内容とプロモーションで「大人げない」と揶揄した者もいた。

 

…と言ったような、一連の流れの中で試行錯誤の中から大きな展望と同時に大きな失意を通過してリリースされたのが、この『ハヤブサ』だ。

なので、当然のごとく、彼らのスタンスを改めて見せるためにも、またレコーディング試行錯誤の末の大きな展望の成果を見せるためにも、作風は中期までとは異なり、暴力的なまでに野心が見えて、エッジの立ったものになっている。
『惑星のかけら』が妄想青年のグランジアルバムならば、この『ハヤブサ』は現実を見据えた青年が一瞬の刹那の時に身を委ねたかのようなオルタナティヴなアルバム。
実際、現時点で見てもここまでの彼らのキャリアで、オルタナティヴ「ロック」色の強い作品はこのアルバムが随一だろう。


試行錯誤の末に体得した、今聴いてもプレイボタンを押した途端に耳の奥まで飛び込んでくるかのような迫力のあるサウンド(それは「ジュテーム?」のような簡素な曲でも同じで、それまでの弾き語りスタイルの曲よりも、圧倒的にクリアに聴こえる)は、どれも最早、昔の妄想青年のものでも、空想好きのキュート男子でもなく、凛々しく立とう「と頑張っている」力強いものだ。

今聴き返してみれば、このアルバムもまた当時の急激ながらも意志をもった彼らの変革の時期だからか『Crispy!』同様に過渡期ゆえのまとまりの無さも感じさせるものの、このハードなオルタナ感を前面に見せつつも肝心のポップセンスは決して手放していないという手法は『Crispy!』のような過渡期ゆえの散漫さが見られない(とは言え、難しいところだ。『Crispy!』はキメちゃってるくらいまでに振り切ってポップなアルバムになっているのに対して、『ハヤブサ』はかなりロック寄りになっているが、当時の切迫していた『Crispy!』の無理しちゃってる感もイケる人からすれば、この『ハヤブサ』は逆ベクトルでありながら手慣れているようにも聴こえてしまうかも知れない)。

プロデューサーに、初めて同年代のex-Spiral Lifeの石田ショーチキ氏を起用したのも、いつもはポップセンスを輝かせるのに、「ハードに演るならいっそぶっ壊すくらいハードにやっちゃえば!?」なんて発言もしてしまえる同氏の大胆ながらも繊細なバランス感覚に惹かれて野心の実現を共にするためである。

サウンドは全体的にポップながらも、どのアルバムよりも野心的なエッジが立ったものであるが、歌詞だけを抽出してみると実は『フェイクファー』からめちゃくちゃ大きな変化が生まれている訳ではなく、むしろ『フェイクファー』の「フェイクでも受け入れ耽溺し切る無邪気に切り裂かれるまでの偽物の世界」があったからこそ、と言えるものになっている。
このアルバムは全体に見れば、先にも書いた様に、「一瞬の刹那に身を委ね、その度々に溺れながらも、いつかはその場所を離れなくてはならない」ことを自覚しているような今までに見られなかった構成になっている。一瞬の刹那に身を委ねきること、溺れきることは、それぞれ初期や中期にも見られたが、このアルバムはさらにその先、どこか没入した後の「醒めた感覚」も持っている。
この感覚はサウンドのまとまりも踏まえて次作『三日月ロック』に昇華されているが、ここでは、ぶきっちょゆえのリアリティとフェイクを交差する言葉が光るのが、偶然ながらも面白いところでもある。

ジャケットはスピッツのオリジナルアルバムとしては初の、歌詞カードを小冊子風に分離した構造をしており、これまた初の縦に見るジャケット。そのジャケットの方は1stの頃からあった「和」の感覚を前面に押し出した、アルバムの内容も相まって暗闇の中で一瞬の"雅"に身を委ねているかのような幻想的な感覚さえにじみ出てくるもの(『ハヤブサ』、がジャケットでは「隼」と漢字表記なのも"和"を演出している)。


ジャケットのついでと言ってしまえばなんだが、たまには機材的な話でも曲解説の補助的に書いてみようと思う。
マサムネ氏はこの『ハヤブサ』期から、ムスタングを大々的にライブ、PV、レコーディングでフィーチャーしている(Fenderのものではない。Fenderムスタングは次作の『三日月ロック』期にPVで使われる)。現在はムスタングの形をしたサイクロン(サイクロンもムスタングの延長線上で作られたギターであるから非常によく似たシェイプをしているが)形態のギターをメインにして、ムスタングはサブになっているが、このアルバムではムスタング特有のジャキッとしたシングルコイルの音色が随所で聴かれる。
「じゃじゃ馬」「おてんば娘」という名前が表す通り、スチューデントモデルのギターとして登場したムスタングは(サイクロンもスチューデントモデルの一つ)、そのショートスケールの小柄な見た目に反して、かなり癖が強い割に操作性が低く、暴れ回るようなサウンドが欠点であると同時に、最上の魅力でもある一品だが、マサムネ氏はこのアルバムでそのムスタングの暴れ狂うようにキュートにギャンギャン鳴り響く音色に「乗りこなす」ことに成功している。
ので、ムスタングファンは、このアルバムを一つのムスタングが光るアルバムとして参考にしてみてはどうだろうか(個人的にはベースプレイヤーだった高校時代の途中からギターも買うことにして、最初のギターから今までずっとムスタングをメイン・ギターにしているが、今でもこのアルバムはムスタングの音作りに迷ったら聴き返している)。このムスタング導入もあえて荒れ狂う攻撃的なサウンドとしての野心の表れにも思える。

テツヤ氏は変わらずレスポールがメインだが、この時期の同氏は個人的には、あえて機材よりも彼自身のルックスに注目したい。
「メモリーズ」や「放浪カモメはどこまでも」のPVでも見られるが、ウルフを通り越してトサカのようになった、まっ金髪のモヒカンカットに前髪をなぜか一部分だけ残しており、そこをワックスか何かでガチガチに固めているのか、文字通り「鬼のような形相」を呈している。それでもギターは相変わらず繊細で緻密なプレイに徹しており、今回暴れるギターはマサムネ氏のムスタングに任せている面も大きいのがまた、テツヤ「らしい」。

田村氏は移り気のしやすいベーシストだが、このアルバムではリッケンベースをフィーチャーしている。The WhoJohn Entwistleに影響を受けた田村氏らしく、暴虐なまでに暴れ回るウワモノの中をメロディアスなベースでマサムネ氏のヴォーカルを引き立てている様がクールだ。

崎ちゃんはこの時期のツアーにおいて、バスドラムにドデカく「隼」と描かれたドラムセットでプレイしていた。その実直なスタイルと「メモリーズ・カスタム」のように振り切った爆発的なドラミングがオーディエンスをアジテイトするのに成功していたことは言うまでもない。


一瞬の刹那の雅に浸りつつ、どこか醒めた彼らの感性は『三日月ロック』で洗練される前にここで無骨に出されている。彼らも、ここまでくると、ナードなロックンローラーではなく、クールなロッカーだ(と「言うフリ」くらいにしているところが彼ららしい)。


2000年7月リリース。

ハヤブサ

ハヤブサ

 
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